戻る

30周年代表トーク 第1章「これまでの歩み」

福田:
みなさん、こんにちは。大阪本社代表室の福田です。当社は2006年に創業30周年を迎えました。しかし、時代は少子・超高齢化を迎え、また安倍政権下の教育再生会議でバウチャー制度や教職員の免許の更新、大学の秋入学や学校評価など教育改革が議論されています。民間教育業界においても大手同士のぶつかり合いが各地で、またM&Aの動きも顕在化しています。われわれのこれまでの成功体験や成功イメージではこれらの荒波を乗り越えていけない、というような感もします。
 ビスマルクの言葉に「賢者は歴史から学ぶ、愚者は経験から学ぶ」というものがあります。節目のいま、西澤代表から直接当社の歴史について語っていただき、あわせて将来の展望をお伺いすることとしました。まずは30年の当社の歩みについてお話を伺いします。本来なら1976年5月15日の難波校開校が創業に当たるのですが、その前、創業に至るまでのところからお話しいただきたいと思います。
代表:
企業30年限界論が昔からよく言われています。これは日経新聞が、戦後のある時期から「日本の企業ベスト100」というのをやり、ちょうど30年後に100番に入っている企業が果たしてどうなったかを追いかけたところ、3割しか残ってなかった――そのことに由来しています。しかも、残った企業も中身がそうとう変わっている。そういう風に、企業というのは時代の流れの中で変わらないと生き残っていけないわけです。
 塾もこれから10年20年先、果たして存続するのかどうか。実は、40年前は日本にいまの形態の塾はなかったんですね。ですから、30年後に塾がなくなってもおかしくない。福田さんが言ったように、いままでの成功体験だけに頼っていたのではやっていけなくなるということも考えられるわけです。そのあたりをみなさんそれぞれよく考えてもらいたいし、いまから当社の歴史を語りますが、そのなかでも絶えず未来がどうなっていくのか頭をめぐらせて欲しいと思います。では、最初の質問にお応えしましょう。
 よく新卒の人たちに言っているのですが、私は大学に入るのに2年浪人し、さらに大学院に3年在籍したので、社会に出るのがずいぶん遅れました。それから、ADセンターという経営者の横顔とかどういう苦労をしてこのお店ができたとかを、お金をいただいて記事風の広告を書く会社に入りました。150人ぐらいの企業で、同期は私を入れて48人。ここで初めて営業ということを経験したんです。苦戦続きで最初の3ヶ月間まったく仕事が取れず毎日のように上司に怒られたものです。「お前、京大の院出てるんやろう! なんでこんな事ができひんのや!」って。「その顔で営業ができると思うんか。お客さんが好感持つと思うんか。鏡見て来い!」とか言われて……。でも、もう辞めようと思いながらも頑張ってやっていると、どういうわけか4か月目にたまたまトップ賞が獲れた。売上に乗じてお金が入ってくる仕組みなので、いきなりすごいお金をもらいました。
 そこで私が学んだのは、ビジネス世界は結果を出さなければだめだ、ということです。「頑張ります!」と言うのではなく、お金を取ってこないといけない。「会社のために仕事をやっている、私は頑張っています」ではだめなんですね。言い訳に過ぎない。
 4か月目にベスト賞を獲ってからは、常にベスト5以内。ベスト10を外れたことは、それ以降1回もなかった。そうやって2年やって、だいたい営業というものに得心がいったな、力も付いたなという風に思って、その後、故郷の東京に戻って東京教育センターという教育の会社に入ったわけです。ここで後に一緒に会社をつくるティエラ・コムの増澤空(むなし)代表、うちでは文章道場の“ヒゲ沼先生”で知っている人も多い沼田芳夫さんに出会った。ここには企画室長に応募しました。60人来たなかで最終的に私が通ったのですが、理由を後で聞いたら、「民間教育の役割」というタイトルで書かされた文章が社長の目に留まって、これだけものを書けるやつだったら……という具合で決まったようです。
 この会社で学んだことは、「理念有りき」ですね。東京教育センターはのちに潰れてしまうんですけど、合宿教育、それも未来教育・テーマ教育といった大変面白い、いまでも通用するような教育を提供していました。その合宿の企画の責任者が私で、1年間ぐらいやっていたんですけど、とにかく当時の社長が徹底的に理念主義なんですよ。私が、パンフレットをつくるから合宿を見に行くと言うとダメだと言う。「お前は、俺が言う理想のことだけを書けばいい」と。考えてみると無茶苦茶で、現場のことを知らないで、合宿を説明しなくていけないので大変。ただ、社長はこうも言う、「現場は自分の理想とはいつも違う。だから違うものをいくら見てもダメだ」と。しかし、その社長も1年後には辞任しました。
福田:
そうですか。
代表:
ちなみに、私より少し遅れて入ってきたのが能開センター部門の恵川さんで、それから会社が潰れる間際にワオネットの和田さんが入ってきました。そんな具合に、非常におもしろい人がいっぱいましたね、東京教育センターには。
福田:
そのあと、代表は会社を辞められて増澤さんと沼田さんの3人で会社を始められたわけですね。
代表:
ええ。それを提案したのは沼田さんなんです。ですから沼田さんが本来社長をやるべきだったんでしょうが、たまたま、家族からお金を借りて、私が一番お金を集めたので、私が社長をやることになりました。いずれにしろ、この創業のころは大変でした。月1万くらいでみんなやっていたんですよ。ほとんど休みもなかった。昼になると、アルバイトの女性にうどん玉を買ってきてもらったり……。それをコンソメスープに入れて、もやしをトッピングして、たまに卵を入れてね(笑)。こんな風に、借りたお金を1年で返そう頑張った。そのころ、私たちは30前後。みんな同年代です。いま思えば若かったですね。
福田:
そういう時代を経て、それぞれ独自の道を歩んで来られたわけですか。
代表:
創業して次の年に私が「大阪に出そう」と提案しました。東京教育センター時代に「6大都市学力コンクール」というのを企画して成功し、それもあって、大阪に出したらどうかという風に言ったんです。そのとき、3人で大阪に準備にきて宗右衛門町あたりでしょうか、綺麗な若い占いの女性がいたので、誰とはなしに「ちょっと占ってもらおうか」となって……。いろいろみてもらったんですが、最後に「いまから3人で会社始めるが、どうかな?」と聞くと、「ああ、まもなく別れますよ」ですって(笑)。一瞬顔が凍りつきましたよ。でも、結局、その通りになりました。
 私が大阪にいることが多くて、二人が東京にいたんですけれども、次第に意見が合わなくなったんです。そして、大阪に出て2年目、すでに160人会員がいましたが、「別れよう」となりました。その後、沼田さんと増澤さんも別れ、ご存知のとおり増澤さんは神戸に行った。ですから、3人のうち残った沼田さんが本当は一番良かったはずなんですが、沼田さんのほうは上手くいきませんでしたね。
福田:
そのころ東京は、どれくらいの会員数だったのですか?
代表:
400名くらいでしょうか。
福田:
対して、大阪は160名。代表が一番厳しい状況になられたわけですか。
代表:
もっとも、その後、1976年の創業のときですけど、新しく事務所を借りに行ったんですけれども、それが失敗で……。大橋さんなんかよく知っているところですが、借りていた4坪ほどの小さな事務所の斜め前に、新しいビルができていくのが見える。ああいうところに行きたいなあって思って交渉したんですけれども、保障金が250万円ほどしてそれが払えない。「実はこういうことを頑張ってやっているんだけれども」と家主さんと交渉すると、「わかった。半分にしてやる。あと半分は月賦でいい」と言ってくれて、とりあえずそこに入ることができました。
福田:
それがOSビルですね。
代表:
ええ。13坪ほどの事務所ですが(ゼミのほうは難波の難波予備校、いまのエール予備校の教室を日曜日に借りてやっていました)、それを借りて年明け1月ぐらいにはもうほとんどお金がなくなってしまったんですよ。当時、会費は半年払いや1年払いでしたが、それがどんどんなくなっていった。春の新年度の募集もしないといけないけど、使えるお金がない。銀行を駆け回ったけども、「担保がありますか?」とケンモホロロです。それで、窮余の一策で私自身が事務所に引っ越した。
福田:
住んでいたところを引き払って?
代表:
小さなアパートを借りていたんですけれど、保証金と敷金とかで払っているもののうち出るときに45万円ぐらい戻ってくるというので、それを充てたわけです。そうなると、当然、住むところがない。まあ独身でしたからできたのでしょうが……。小さな冷蔵庫と洗濯機、あと布団なんかを13坪の事務所に持ってきました。当時、アルバイトの女性たちは「この会社、大丈夫なのかな?」と思っていたはずです。もっとも、そこに泊まっていたわけではなくて、アルバイトの女性が西成とか尼崎とかの、800円とか1000円とかで泊まれる安宿をとってくれるんです。そこを転々としました。そんな生活を1か月して、つくったお金をすべて広報につぎ込んだわけです。当時は新聞とDMが中心でしたけれども、起死回生で結構当たったんですよ。
福田:
よかったですね、本当に。
代表:
もし、それがもしダメだったら、いまのワオ・コーポレーションはない。ちなみに、ワオワールドの社長の村上さんもそのころの会員でした。彼なんか地元の和歌山から何十人か引っ張ってくれました。とにかく、日曜日だけの授業ですから、もういろんなところから来るんですよ、評判を聞いてね。伊賀上野だとか天橋立からも来ていました。とにかく、反応がすごかった。朝日新聞の横一段に「能力開発センター 日曜特設ゼミ」という広告を出すでしょ、広域からすぐに反応が来る。いまから考えると、こういうやり方が本当によかったんだろうと思います。
福田:
常務の大西さんも、このころご入社になるんですか?
代表:
大西さんは、難波で始めてからたぶん2年目ぐらいです。大橋さんのほうが先に新卒で入りました。東京でやってるときに、大阪で新卒募集をしたら大橋さんが来たんです。でも、とにかく小さい会社。なんとかして規模の小ささをごまかさないといけないのと考え、大橋さんのときは、たしか上本町の大阪府教育会館で面接をして、その後すぐに東京に連れて行った。まあ、東京なら少しはイメージがいいだろうということで銀座なんかに連れていって、ステーキでも食べさせてあげるなどの戦略を練ったのを覚えています。
 大西さんのほうは、彼はイギリスに行っていましてね、帰ってきて別の仕事をするまでの間、塾で英語でも教えようという感じだったと記憶しているけど、彼には合宿の素晴らしさや理念なんかをじゅんじゅんと説いて、騙したというか(笑)、そんな感じでしたね。
福田:
そして、難波のあと、「御堂筋戦略」と呼ばれている江坂などの開校が続くわけですね。
代表:
そうです。日曜ゼミで予備校を借りているけど、いつ「貸さない」と言われるかわからない。生徒が集まれば集まるほど不安が募っていった。やはり「自前の教室を」ということで、江坂と天王寺に小さいけれども教室をつくったわけです。
福田:
そして、創業して2年目の1978年、あの六甲山頂YMCAでの「日本一宣言」につながるわけですか。そのあたりのお話をぜひお聞かせください。
代表:
先にお話した、東京教育センターの時代の社長の、「まず理念有りきだ」という考えの影響をだいぶ受けていたと思うのですが、私と増澤代表と沼田さんと3人でやったときから、「日本一を目指そう」と言い合っていました。いずれにしろ、難波にかなり広域から生徒が集まるようになった、非常にいい子どもたちが集まっていた、このやり方は全国でも通用するはずだ、という非常に単純な考え方でしたね。なおかつ、新幹線が博多まで通った(1975年)。私たちには守るものはない、攻めだ、日本一を目指すぞと、そういうふうになっていったわけです。
 残念ながら、まだ日本一になっていませんが、ただ考えてみると、いま当社が150億~160億円、増澤さんのところも100億を超えていると思います。合わせると1番にはなっていないが、かなりの規模にはなっている。だから私はそのときも言ったと思うんだけど、目標を高く掲げれば、最終的にそこまでいかなくても、そこそこいくんです。やはり目標だけは高く持ったほうがいい。そう思いますね。
福田:
その目標を掲げた直後、岡山を皮切りに西日本に展開し、一転、今度は東京へ――。
代表:
ええ、岡山へは1978年の10月に行きました。その後、年を越えて1月に広島に、さらに5月に福岡本部を出しました。実は、そのころ私の父親の調子が悪かったんです。岡山のころはまだよかったが、広島に行ったころ入院。ちょうど九州に行ったとき84歳で亡くなりました。広島と九州の間で、2、3回危篤で東京に戻らないといけないことがあって、けっこう大変でした。でもまあ、本当に集中的に展開できました。
 そのとき中心になったのが大西さん。当時のメンバーを見ていて、一番展開力があるかなぁ、と。身が軽いというか。ほとんど新幹線でいろんな打ち合わせをして、大西さんは私の言う通りに新幹線の中でチラシをつくっていました。当時は新幹線に乗ると2人してまず食堂車に行ったものです。それで、席を確保する。
福田:
テーブルがありましたからね。
代表:
いま食堂車なくなりましたけど、福岡までの3時間強、小出しで注文をするんです。そして粘る(笑)。一生懸命打ち合わせをして、テーブルの上が消しゴムのカスだらけになって……よくそんなことがありました。一方、大橋さんは難波のほうで、理科実験の三好さんなどと一緒に、授業のほう、守りを固めていました。もっとも、何かあるときは全員で行きましたけどね。とにかく若く、そして速かった。
福田:
そのように一気に展開できたポイントは、どこにあったとお考えですか。
代表:
そのあと東への展開は、大西さんがほとんど一人で、北海道から東京、名古屋まで2年ぐらいで出しました。ここからは若い人たち、中堅以上の人も含めてぜひ聞いてもらいたいのですが、そういう点でのスピードがいまのうちにはないですね。当時のすさまじいスピードは、どこの塾にも脅威を与えたものです。うちが動くと聞けば、地元塾は戦々恐々だった。たとえば、北海道では進学会に刺激を与えた。結果、進学会は逆に本州に攻めて来たでしょう? そのポイントはやはり「人」。「人がもうひとつ」という場合は上手くいかなかった。これは教育事業だけじゃないんですけど、やはり企業というのは人なりです。ただ頭数があればいいという問題でもないんですよ。
福田:
いい人が取れればいいですけど、育てるというスタンスも必要ですね。当時の研修はけっこう厳しかったとも聞いています。
代表:
たぶん古い人たちは、研修と聞くと冷や汗が出るというか、そういうところがあるのではないでしょうか。たとえば、挨拶だけで十数回繰り返しやらせるとか、いま考えると理不尽としか言いようのないようなダメ出しをして、繰り返しさせた。私が直接やらなくなってからも、厳しい研修はしばらく続きました。最近はそんなことはなくなりましたけど。あるときなど、私が話をしに行く途中で、研修会場から帰ってくる人間と出会ったりするんですよ。「どうしたの?」と言うと、「もう帰れと言われたので……」。
福田:
代表が着く前にですか?
代表:
ビルに着いて、さあ、私が話しをしようという、その間に帰らされる人もいました。そういうなかで残った人たちが、力を発揮していく。そういうところはたしかにありましたね。もちろん、素材・素質もある。まあ両方でしょう。
福田:
その後、本社を大阪・京橋のツインビルに移したり、社名を「教育総研」に改めたり、創業から10年ということで「チャレンジNEW10」というものを策定したり――いろいろなトピックがありました。とくに1988年の株式の公開は大きな出来事でしたね。
代表:
私は、創業のころから一貫して「単なる私塾には終わらないぞ」と言っていました。さっきも言ったように40年前にいまのような塾はなく、われわれが始めたころから各地に塾ができてきた。もちろん、われわれも最初から大手だったわけではないし、ナガセや大阪の馬渕もみんな同じ、当時はまったくの私塾でした。でも、そういう私塾には終わらないという意識が私には絶えずあって、つまり、ある種の企業としてちゃんとやっていくぞ、と。教育をやるということなんだけど、社会的な認知とか、ある種の成長性とかも追いかけていく。そう強く思っていました。
 大阪の人は知っている人も多いでしょうが、私が大阪にきたころ、入江塾というそびえたつような塾があったんです。入江伸というすごい先生がいて、私はその先生の「受験教育でも学力は3分、人間力が7分だ」という考えを聞いて、すごい人だなぁと思ったものでした。入江さんの講演録なんかをずいぶん読んだ記憶があります。ただ、入江塾もいまはありません。入江塾は高校受験ですが、中学受験ですごいといわれた大川ゼミもいまは“やっているだけという存在”になってしまった。このように中心になる経営者とか中心になる先生がダメになると、それで塾も終わってしまう。これが私塾なんですね。これではダメだ、と。創業者やスター講師がいなくなったうえに、組織としての永続性がなければ、教育なんていうのはきちんとできないんじゃないか。そう考えたわけです。
 そのように思い始めた矢先に、学究社(進学塾ena)が株式を公開した。私自身はそういうことにあまり意識が向いていなかったのですが、証券会社などが当社に注目し出し、「事業のゴーイング・コンサーン(永続性)、知名度などいろいろなプラスがある」などと聞かされ、株式公開に進むことにしたのでした。ちなみに、当社の公開は12月22日。直後の1月7日に天皇が崩御された。結果的に昭和最後の公開企業となったわけです。
福田:
なるほど。ちょうどいま、天皇崩御のお話がありましたが、時代が平成に移り、そのころ当社は拠点主義と言えばいいのか、ターミナルに大きく出すというスタイルをとっていきますね。具体的に言うと、岩手や栃木、大阪、和歌山、岡山、香川、大分など。そして、いよいよ県内ネット・市内ネットなどのネット展開に移っていきます。奇しくもこの時期に、新規事業のスタッドがFC展開を始めました。
代表:
いろいろな県に勢いよく出ていったものの、補給の部分、兵站と言いますが、そこが実はすごく大変で、必ずしもそこがうまくいっていなかったんですね。教育のシステム的なものはつくれたが、人材や資金を含めた第2派、第3派が、展開の場面が広すぎてなかなか上手くいかなかったわけです。そのため、いったん出して退いたところもずいぶんあります。長崎や熊本、鳥取や岐阜にも出ていた。そういうこともあって、出したところを固めていく――市内ネット、県内ネットを少しずつ進めていくようになったわけです。
 同時期にスタッドを始めています。これは私の意識に、ベネッセ(当時は福武書店)と公文教育研究所があった。これらは教育産業では一番と二番を占めています。このうちベネッセは、通信教育で進研ゼミが学校へ相当入り込むようになっている。過去の生徒手帳のころに築いた関係がもとですよね。一方、公文は教材の仕組みと、あとはお母さん先生のFCだ、と。こちらのほうは、当社でも行うことができるだろうと考えた。そこで、研究に研究を重ねて、スタッドを開校したんです。
 ただ、スタッドはそれなりの利益を出しているが、当初非常に経費がかかり過ぎましてね。なにしろマッキントッシュを各教室に入れないといけないということで、先生も大変。研修大変。累積赤字はまだ解消されていません。加えて、今後はネットでいろんなことができる時代になっていく――そういうことで、いまFCは一旦ストップ、新しい県には出していません。
もっとも、あれだけ優れた教材の仕組みは残りました。これをFCという形ではなく、どう別の仕組みのなかで活用していけばいいか。物事というのは、こういうことがよくある。ひとつのやり方では上手くいかなかった、あるいはまあまあの成果でも、違うやり方で成果を上げられるようにする。私はネットでスタッドの教材を使うというのは、非常におもしろいと思っています。
福田:
なるほど。ところで、今度は創業から20年経ったころのお話をお聞きしたいと思います。20周年記念で「Will be 21」を策定。21世紀へ移る前後にはWAOクリエイティブカレッジが開校したり、個別指導アクシスが産声をあげたり、現社名のワオ・コーポレーションに改名したりしました。さらに、WAO資格カレッジなど生涯教育にも展開していき、同時期にエデュテインメントという企業コンセプトとなる言葉も生まれました。
代表:
20周年の前、10周年のときに「チャレンジNEW10」というのを出した話は出ましたね。「チャレンジNEW10」で掲げた1つは横の展開、いわゆる連鎖と私が言っているものです。もう1つは縦の展開、子どもだった人が大人になってまた戻ってくる、あるいは塾生が大学生になって先生として戻ってくるという、ある種、循環の考え方です。この考えをさらに組織的にどうやったらいいかということで、その間の10年の変化も加えて生み出されたのが「Will be 21」です。
 硬い組織からチームとかプロジェクト体制に変え柔軟にやっていこう、というのが眼目です。あの当時はよくアメーバ組織とか言われたものでした。部があって課があって係があって、部長・課長・係長がいる。そういう古めかしい組織はやめ、全部をチームとかプロジェクトにしてしまって、一人が複数のプロジェクトに参加するというやり方です。プロジェクトの役割が終われば、また別のプロジェクトにしていくという感じでね。そういうふうにチームとかプロジェクトで会社を運営したらどうかということから、「Will be 21」を考えたわけでした。ただ、ちょっと奇抜すぎたというか、組織そのものがついていかない部分があり、上手くいったとは必ずしも言えない。しかし、「チャレンジNEW10」を踏まえ20周年を機に考えたことが、いまに活きているという面はあると思います。それが、たとえばネットへの取り組みであったり……。
 その一方で、ITとの出会いというものがありました。20周年のころアメリカに行って、教え子だったサンフランシスコ領事(当時)に会って、彼にサン・マイクロシステムズなど普段行けないようなところを案内してもらったんです。そして、ITというのはすごいなと感じた。時を同じくしてエデュテインメント、とくにアニメーションやCGに私自身注目し始めていました。そのような経験から、まずは人を育成しないといけないと考え、DCC(デジタルクリエーターカレッジ)をつくることになった。ただまあ、先を考える人はいるものです。そのときすでにデジタルハリウッドというスクールができていましてね。アメリカに行って、うちがつくろうということで調べたら、デジハリが3、4年前にできている。いずれにしても、「Will be 21」の様々な取り組みの原点みたいなものの多くは、いま続いているように思いますね。
福田:
たしかに、おっしゃるとおり。いま芽吹いてきているところもありますね。
代表:
ええ。
福田:
さて、当社はどちらかというと集合、受験の色が濃かったと思いますが、この頃からそれに加えて個別、生涯教育のほうにも向かっていきました。
代表:
スタッドは個別ではないが一人ひとりの課題に対応した教育システムなので、スタッドがあれば個別指導のほうは不要じゃないかと、私は思っていました。そのため、個別指導のスタートが遅れた。これは経営判断としては失敗だったと思い、反省しています。これからますます個別のニーズは高まるだろうし、なんとかうちなりの工夫をして進めていかないといけないなあ、と。生涯教育のほうは、DCCに設備がかかりすぎたりして赤字になったわけですけど、ワオワールドというアニメの制作会社がなんとか立ち上がり、アニメ映画が2本できるなど成果も出ている。ワールドは他社から受注するなど頑張っていますからね。私は教育も含め業界というのをあまり意識していないんですが、アニメという世界の中では、結構うちの独自性が出せてきているように思います。
さらに、これから教育の様々なコンテンツが考えられるので応用もききます。資格もまだまだ上手くいってない部分がありますが、ここは整理し当社が得意とする分野に絞り込んでいくと、伸びる余地は十分ある。まあ子どもの数は減っていくが、勉強したいという大人はどんどん増えています。いろいろ失敗も含めてやってきたなかで、どういう取り組み方をすればいいのかということも、少しわかってきたように思います。
福田:
ずいぶん駆け足で30年間のお話を伺ってまいりました。第1章「これまでの歩み」の最後に、従業員のみなさんにメッセージをいただけますでしょうか。
代表:
いま自分がやっている仕事の周辺に、発展する要素がないか。その「発展」という部分について貪欲になって欲しいですね。それが第一です。たとえば、集合教育でも自分の県を見てください。まだ可能性はありますよ、いくらでも。個別はましてそうです。家庭教師なんかはまだ全くですよね。家庭教師最大手のトライなんか中身は大したことありません。しかし、うち全体の規模よりもトライのほうが大きい。その意味でも、われわれは家庭教師にも“トライ”できるわけで、その可能性をもっと探ることが重要です。
 2点目は、やはりスピードが大切だ、と。若い経営者がやっている会社なんかは、ものすごいスピードでしょう。スピードを、経営を含めものの考え方の重要な要素として据えなければだめです。正直言って、当社の社員はスピード感に欠けている。もちろん、5年先10年先も大事だけど、それぞれの県、部署をいまどうするのか考えないといけない。来月どうするのか1年後どうするのか、その計画をもっと早く立てて行動を起こすべき。もっと荒々しく、動きを激しくするということも必要です。
 あと3番目に、先ほども「すべては人だ」と言いましたが、では、どういう人がビジネスとして成功するのか? やはり引き受けるということだと思います。ただ、その場合も最初のところだけを興味を持ってやるというのではいけない。それは誰でもやるんですよ。私がよく言うように、何か計画を立てて仕事をやった気になっているが、実は3割か4割しかやったことにはならない。引き受けた限り、最後まで結論が出るところまでやらないと。結論というのは、さっきも言ったように結果です。しかも、会社にとって結果は利益を上げたかどうか。つまり、お金儲けができたかどうか。もし利益ではないならば、会社のイメージをうんと上げることができたかどうか。
 アニメーションなんかは、その役割を果たしているんじゃないかと思う。年間1億円かけているが、広報費のわずか6~7%に過ぎません。それなのに会社のイメージが全然違う、来るリクルートの学生の数も圧倒的に増えましたよね。これは大きいわけです。このように結果を出すというか、そこのところを十分考えて、仕事をやっていただきたいと思っています。
戻る
このページのトップへ