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1987年(昭和62年)12月3日

Creo 山新教育セミナー〈山形新聞社主催/教育総研協賛〉
(桐島洋子氏講演会の前座として)

■今、子どもたちのやる気を引き出し可能性を育てたい

 どうもこんにちは、教育総研の西澤でございます。今回は「子どもにやる気を出させる法」というテーマでお話をさせていただくわけですが、まぁ、小学4年生から5年生くらいのお子さんを対象に話をすればいいかな…と思っておりましたが、お見受けしますと、ややご年配の方もいらっしゃるようで、中には私がちょうど子どもくらいといった感じの方もおられまして…(笑)。
 これはどういった話をすればよいかな、と思っておるわけです。恐らく、ここにいらっしゃる皆さんは桐島洋子さんのファンだろうと思います。そういった意味では、子どもの話をするというのも恐縮なんですが、まぁ、小学校高学年ぐらいを対象にした話を、三、四十分ぐらいさせていただきたいと思います。

■能力はあるが、やる気のない子どもたち

 私が本格的に教育総研の活動を始めましてから、かれこれ11年になるのですが、さまざまな地域で、子どもたちのお父さんやお母さん方とお話をしてまいりまして、よくおっしゃることがあるんです。それは、どういうことかって言いますと、例えば、うちの子は能力はあるんだろうけど、やる気がもう一つなくて、十分に力を出し切れていないんではないか、といった内容ですね。それで、先生一つそのやる気をよろしくお願いします、とこうくるんですが(笑)。どうもその背景には、おそらく、うちの子は顔も人並み以上だし(笑)、文句を言うのも人並み以上。それに何しろ自分の子どもなんだから、そんなに能力が劣っているはずがない、という親の認識があると思うんですね。
 つまり、本来、力はあるんだろうけどやる気がないために、それが結果に結びついていかない。例えば、試験なんかでも、結果的にまあまあ力を発揮できていても、何かもっと潜在的な力を秘めてるんじゃないか、というようなお考えの方が多いだろうなと思うのです。ですから、能力とか才能とかいうものと、それが何らかの形になって発揮されていく、という部分がどんなふうにつながっていくのか、といったことは大変難しい問題なんでしょうけど、私たちは専門的な分野で、脳のメカニズムが何とかかんとかということになると、全くの門外漢でありまして、むしろ、子どもたちとのさまざまな勉強とか合宿教育なんかの体験を通してお話をしたいと思うわけです。

■後天的な才能は、やる気にかなり左右される

 今、東大に一番たくさん入る学校として関西には灘高校というのがあります。名前はご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、東京の開成高校とか、麻布高校とかと並んで、全国屈指の受験学校ですが、そこに今はもう名誉校長になられましたが、勝山正躬先生という大変有名な方がおられます。この方は実はお坊さんでございまして、そちらの方でも随分有名なんですけど、この勝山先生が講演会などでお話になることに「資質が半分、後天的なものが半分」っていうのがあります。
 話の内容は「たくさんの子どもたちを見ていると、とにかく初めから備わっている能力が半分ある。後の半分は、努力とかによって後から身につく能力だ」といったことです。そうすると資質が半分という具合になっちゃうと、その資質が一体どういった方面に向いているのか、という問題が出てきます。スポーツの場合、資質っていうとはっきり分かりますよね。私なんかも、小さい時から野球ばかりやっておりまして、体がもう少し大きかったら野球でやっていきたいな、なんて思ってた時期もありました。ところが、目が悪くなりまして、おまけに身長が全然伸びなくて(笑)。
 余談になりますが、私の子どもの年代ですと、馬のフンを踏むと身長が伸びるなんてことを言われましてね、当時どういうわけか、東京ではよくそんなことを言われたんですよ。まぁ昭和20年代の東京なんて、まだ馬車が走ってたぐらいで、馬が馬フンを落とすたびに、はだしで走っていって、それをぐにゃっと踏んづけたりした思い出があるんですけど(笑)。そういった努力のかいもなく、やっぱり身長は伸びなかったんですけど(笑)。それで、これはやっぱり資質の問題なんだろうなあと思うんですね。考えてみると、両親ともに背があんまり大きくなくて、ついでに親父が近眼でございまして(笑)、私も中学に入るぐらいから、ものすごく目が悪くなってきて、眼鏡をかけないことには野球のボールが全然見えなくて、体にぶつかったりするんです。これはもう野球どころではないということで、当事、少年野球をやっておりましたのを断念したわけです。
 つまり、何に向いているかは別としまして、やはり資質的なものというのは歴然としてあるような気がするんですよね。ですけれど、勝山先生が言われるように、一方でやっぱり、そこで頑張ることによって身についてくる後天的なものも、随分とあるような気がするわけです。そこで、やる気ってものがどういう具合に能力全体にかかわっていくのかって事を考えてみなすと、たとえもって生まれた資質自体は全く変わらないものであっても、後天的な才能や能力は、やる気といったものにかなり左右される性質のものだ、ということが、何となく経験的に分かるわけです。

■やる気とは、継続的な努力なり

 それじゃあ、やる気って一体なんだろうってことになるわけですが、現在、私ども教育総研には、200名の職員と約1000名の先生方が働いておりますが、職員や先生方を見ていますと、率直に言いまして随分差があるな、と思うんですね。もちろん、教育総研の人たちっていうのは、私も含めてかなりやる気があるなとは思うんですが(笑)。そんな人たちの中でもやっぱり個人差がある。そうすると、やる気っていうのはどうも集中力に関係があるんじゃないか、集中力を持続的に発揮できる状態という意味でですね、あるいは、言葉をかえると継続的な努力と言いますか、努力をし続ける姿勢というようなことではないかなと思うのです。ですからそこのところをちゃんと心得てる人とそうでない人とでは同じ人生の中でも確実に差がついていくんだろうな、と感じるわけです。
 例えば、私自身これまでさまざまな方にお会いしてきましたが、本日の桐島先生もそうですが、今までに竹村健一さんとか…。ちょっと話がそれますが、本日は山形におじゃまするということで髪を切ってきたんですが、ふだんはもう少し長く伸ばしてラフにしているんです。それで、以前に教育総研の竹村健一なんて呼ばれていたことがあるんです(笑)。えー、その竹村健一先生に今まで2回ほどお会いしたことがあります。それと、あの黒柳徹子さんにも講演会に2回ほど来ていただきました。また、テレビなんかでおなじみの評論家の田原総一郎さんなど…。ああいった方々にお会いして、つくづく感じますことは、とにかくスキがないといいますか、よく勉強しておられる。私どもの講演会に来ていただきましても、ちょっとお茶を飲んで休んでいる間にも、何か書き物をされていたり、次の講演会のことを考えておられたりする。びっくりしますのは、帰りの新幹線の中なんかでもインタビューを受けてられるんですね。やっぱりああいった仕事を有名人としてやっていくってのは大変なんだなぁ…と。
 つまり、非常に継続的、かつ継続的な集中力や努力が要求されるんだろうなぁ…ということが、しみじみと分かるんです。そこで、そういう継続的な努力をどうすれば制覇できるのか、ということですけれど、これがまたとても難しい問題なんですね。

■桑田選手いわく、「僕には努力しつづける才能がある」

 この問題について、とても面白い事を言った人がおりましてね。皆さんご存知の読売巨人軍の若きエースで、PL学園からプロ入りしました桑田選手なんですが、私は、あの方を大変面白い人だなと思いましてね。野球見るばっかりじゃなくて、いろいろ書かれたりしたものなんかもよく読んでるんです。その桑田選手が常日ごろ「僕には、継続的な努力をし続けるという才能があるんだ」と語ってるんですね。多分そこには、同じくPLから西武に行った清原選手との比較的な意味合いもあったんだろうと思いますが、清原選手の場合はまぁ初めから天才といいますか、実に才能が豊かであるといわれていた。それに比べまして、桑田君の場合は最初から才能があるといったタイプではない。だからこそ「努力をし続ける才能が自分にはあるんだ」という発言は、きわめて含蓄に富んだ言葉ではないかと思うんです。
 そして何より、今年19歳になったばかりの少年が、はっきりとそういった自覚を持っているという辺りが、やはりただ者ではないな、と思うわけです。一方で清原という先ほどの勝山先生の言葉を借りれば、資質的な才能をかなり持っている選手がいて、彼と比較して、桑田君の場合は、努力によって培われた才能がある。またその「努力をし続けてやるぞ」っていうふうな継続的な意志の力がある。この意志の力こそ、才能と言えば才能と言えるんじゃないかな、と私なりに解釈するわけです。

■やる気があること自体が、才能なんだ

 そう考えてみると、お母さん方との教育相談会などで話題になる「才能はあるらしいけど、やる気がないからダメなんだ」という理屈は間違いであって、どうもやる気(集中力)があること自体がすでに才能で、しかもそれは、後天的に身についた才能なんだ、ということが言えなくもない。それじゃあ、子どもがその継続的な集中力、あるいはそのための努力をどうやって身に付けていくのかということを考えてみると、やる気という能力は、子どもが0歳、1歳、2歳、3歳と、だんだん大きくなっていく過程において、自然に身についていく後天的な才能であるのだから、当然、家庭環境であるとか、社会的な環境というものに大きく作用されるということが、よく分かるわけです。やっぱり子どもっていうのは、家庭を少し踏み越えた幼稚園や学校という社会的環境の中でしか育っていかないわけですから、そういうところでやる気がある、集中力があるというが決まってくる。ですから、逆に、どういった家庭環境や社会環境の中で、やる気とか集中力が形成されていくのかを考えてみればよく分かると思うのです。

■圧倒的に予習型のラ・サールの子どもたち

 ここでまた、灘と並んで西日本で有名なラ・サールという鹿児島にある学校を例に引きます。ラ・サールっていうとこれまた名前はお聞きになったことがあるかと思いますが、私も以前2回ほどおじゃましたことがありまして、全寮制の学校なんですね。寮には、当然のことながら、結構やる気があってよくできる子どもたちが集まってきてる。それで、そういう子どもたちが、どんなふうに勉強をしてるのかっていいますと、これがはっきりとした傾向がみられるんですね。学校の勉強っていうと、先にやるのが予習、後からやるのが復習なんですけど、どちらか一方ということであれば、ラ・サールの子は圧倒的に予習型なんですね。
 びっくりしますのは、その6月くらいに中学2年生なら2年生のノートをちょっと見せてもらったんです。そうすると英語や数学なんかの場合、教科書の2学期の終りから3学期ぐらいまでのほとんどのページの問題を、ノートに全部書いて解いてしまっている、そんな子どもたちが多いですね。もちろん、ああいう学校ですから、学校自体の速度も速いです。しかし、それに輪をかけて、子どもたち自身がよく勉強している。具体的に言うと、教科書でも参考書でも例題の説明の部分をしっかり読んで、何度も勉強して、なおかつ問題を全部ノートに書いて答えを出しているという具合なんです。通常の学校の半年ぐらい先を進んでいる子はここにはざらにいるんですね。
 ここで明らかなことは、みんなが意欲に燃えて頑張ろうとしている集団の中に入ると、知らず知らずのうちに自分も頑張らざるをえない空気みたいなものが生まれてくる。それと勉強でもなんでもそうだと思いますが、やる気が出るかどうかっていうのは、まず、分かるかどうかという問題、すなわち「あ、分かった!出来た!」っていう実感がある場合には、子どもは非常にやる気になりますよね。ですから方法としては、復習型より先にやっていく予習型の方が、やる気になりやすいということだろうと思います。
 灘なんかでもそうですけど、数学の授業とか見てますと、先生は非常に楽に授業をこなしているなという印象がある。黒板をパーッと四つぐらいに仕切りまして、1番だれ、2番だれだれという具合に指名していく。そして生徒がそれぞれの解き方を黒板に書いていって、その後本人に説明させて先生自身もう一度説明し直す、というパターンでどんどん進んでいく。もちろん、相当訓練を積んだ、勉強のよく出来る子どもたちが集まっている集団だからこそ、そういったことが可能なわけですが、全体的に見て何かこう、学校よりも先にやっていこうとか、ある程度分かって授業に参加しよう、というような前向きな意識や姿勢が、随分と全体の風土の中に浸透しているなぁ、と感じるわけです。

■予習型の勉強が、やる気をうみ出す

 ですから、もう一度申しますと、やろうとする雰囲気なり空気みたいなものがあるところでは、子どもというのは自然とやるようになってることがまず1点。それと、少しでも先に予習をして、自分である程度了解しておいた方が興味が引かれてやる気になるということです。
 これは一つの例で、私どもの職員の家庭なんですけど、小学3年生になる娘さんがおられて、その娘さんが今までテレビドラマっていうのを見たことがなかったらしいんです。それがどういうわけか、今、NHKでやっております「独眼竜政宗」に大変興味を持って、日曜日になると番組が始まるのを楽しみに待つようになった。それで、お父さんと政宗が愛姫とどうのこうのとか、家康とどうのこうのとかお話をするようになって…。実際「今日はどうなるかなぁ」なんていつも話してたんだそうです。それで、独眼竜政宗の漫画本が出てるんですけど、突然その漫画本を買いたいと言い出しまして、現実に買ってきたらしいんです。結果的には、どんどんその漫画を読んでしまって、今度はお父さんに「政宗はこの次はこうなるのよ」なんて一生懸命話すんだそうです。
 まぁ、それなんか一つの例ですけど、子どもってやっぱり新しい事に興味がある。一つ興味を持つと、どんどんそれにのめり込んでいっちゃう、そしてもっともっと興味がわいてくるといった循環が繰り返される。
 話は変わりますが、学校なんかではよく復習が大切だと言われる。お子さんのタイプによっては確かにその通りなんですけど、しかし、先ほどの話でいえば、復習っていうと1回見たテレビの番組を次の日もう1回見るのと同じようなところがありまして、なるほどよくは分かるんですが、何となく興味が引かれない。週刊誌なんかでも、1回読んだものをそのまま置いといて、また読もうなんて気はあまり起こりませんよね。それよりも新しい週刊誌のほうがどんなことが書かれているか興味が引かれる。
 それと同じような意味合いで、私はやる気と言うものが生まれてくる背景には「次はどうかなぁ、新しいものは何かなぁ」っていうようなだれでもが持っている好奇心をうまく引き出してあげる環境づくりが非常に大事なんだろうなぁと思うわけです。私たちが教えております子どもたちの中でも、よくできて、さまざまなものに目を輝かして取り組んでいる子っていうのは、大体がやはり予習型ですね。そう考えてみると、学校がどうであれ自分自身でやってみる。というような「自学自習」の姿勢が身についている子というのは本当に強いなぁと痛感するわけです。

■徹夜合宿でのこと

 そういういうことを踏まえた上で、やってやろうという気持ちっていうのは、先ほども申し上げましたように、周りにやってやろうと燃えている仲間がたくさんいると自然と自分もそういう気持ちになるということです。
 私どもの行っている合宿には、全国からさまざまな子どもたちが集まってきて、勉強したり遊んだりするわけですが、受験学年のお子さんになりますと、合宿中に一晩徹夜したりするんです。これは、子どもたちをぎりぎりの状況に追い詰めて、眠気と戦わせてどこまで頑張れるかを挑戦させてみるといった意図のものなんですが、ほとんどの子どもが頑張って朝まで起きていて、明け方になって太陽が出てくると、みんなで日の出を拝みに行ったりする。そして、一夜明けてみると、一晩よく頑張ったなぁってことで、ワァーっと歓声が上がって拍手がわくといった状況が展開されるわけです。
 そういうことをやるとよく分かるんですが、みんなが一晩頑張ろうって雰囲気になったときには、途中眠たい子もいるはずなのに、ずいぶんと頑張り抜こうとする意思が働いて、何とかやり抜こうというムードになってくるんですよね。
 これは、たまたま6年生と5年生が一緒に合宿に行った時の話なんですが、6年生の場合、まぁそういう徹夜をやってみようという話になるわけですが、5年生の場合は、まだ受験がないから先に寝るんです。そうすると5年生の中からも、自分たちも徹夜をやりたいなんて申し出てくる子もいるんですよね。やはり周囲の環境に影響されて、「僕も頑張ってみよう」っていうような状況が生まれてくるということなんですよ。
 そうすると、やる気と集中力とかが環境によってはぐくまれていくものなら、家庭環境がどうであればいいのか、お友達とか先生といった社会的環境はどうなのかってことが当然問題になってきます。

■“大義名分”を重視する子どもたち

 家庭の問題については、私どもから見てまして、どうもお母さん方が子どものやる気を摘んでしまっているような部分があるなぁって思います。
 ここで、皆さん昔を思い出していただければ分かるわけですが、子どもってのは、やはり「テレビのチャンネルを消して勉強しなさい」って言われるだけで、やる気がなくなっちゃうものです。そういうことは分かってるつもりなんだけど、どうも大人っていうのは、一言言わざるを得ないみたいなところがあるわけで。つまり、テレビを継続的にダラダラ見る習慣がついてしまっているところに、すぐに見るのをやめなさいっていうこと自体がやはり間違ってるなと思うんです。よく、テレビをつけっ放しにして食事をしている家庭がありますが、当然のことながら、対話をする場合でもテレビを見ながらの対話になる。そうすると対話自体が上の空になるんですよね。テレビからの一方的な情報が流れてきちゃうと非常に対話がしにくくなってしまう。そういう意味でも、テレビなんかは、きちんと消して、対話するところでは対話するという習慣をつけていかないと、自己表現ができなくなるんじゃないかって気がします。
 それから、最近の子どもたちを見てますと、大義名分といいますか、理屈がちゃんと通ってないと納得しないっていうケースが多くなってきてる。ですから「勉強しなさい!」って、特にお母さんが言われる場合、お母さん自身が本を読まれるなり、何か考えられるなり勉強なさってですね、ちょっとした時間でも子どもと一緒に共有していこうとする努力を見せてあげるようにする。ただ単に、勉強しなさいっていうだけじゃあ、子どもはそれに対して非常に反発を感じると思うんですね。そういうようなことでやる気をそいでしまっているケースっていうのは、実は非常に多いんだろうと思います。例えば、子どもにピアノなんか習わせておきながら、テレビの歌謡曲ばかり聞いている。その歌謡曲にお母さん自身が夢中になってしまっている。これなんか実にちぐはぐですね。そういう意味で、やる気をそいでいく要因ってものを逆に考えていかなければダメだという気が私はしますね。

■一生懸命勉強してもしゃべれない英語教育

 先日、テレビで大橋巨泉さんの番組を見てまして「英語教育の問題点」というテーマでやってたんですが、今ここで、英語の授業について考えてみると、最初のころの授業っていうのは、子どもたちがみんな「英語って何だろうな、楽しい英語ってものを、自分がこれからやっていくんだな」って、目を輝かせて参加しているんですね。ところが、わずか3ヶ月ほど経って夏休み前ぐらいになると「英語はつまらないなぁ、やる気がしないなぁ」ってあきらめちゃう。もおう6、7割から8割ぐらい、ひどいところでは9割ぐらいが、もう英語ではダメなんだ、というありさまになっちゃう。それは、どこに原因があるかっていうと、やっぱり指導法なり先生なりに問題があるわけです。
 ちなみに、日本の中学の英語の先生で外人と話した経験が一度でもある人は、6割に満たないんだそうです。どうやらコミュニケーションの道具である語学を教えるのに、学問としてアプローチしているところに問題点がありそうですね。英語教育の場合、大学まで入れて十何年やっているわけですよね。10年以上相当に頑張って勉強して、試験も何度もして、それでも、わずか二、三分の間ですらしゃべれない教育って一体なんだろうか、と考えてしまうわけです。
 余談になりますが、私どもの職員の面接試験なんかで、意地悪く「竹下総理大臣について、どう思うか英語で話してください」なんて、ぱっとテーマを与えるんですけど、ほとんどの場合、わずか二、三分でもしゃべれないですね。それでは、読む方はできるのかなってことになって、これまた意地悪く英字新聞なんかを用意しておいて「この囲みの中を訳してください」なんてやるんですけど、これもまたできない人が多いです。
 それで全体的にいいますと、まず一つは言葉について、相当踏み込んだ勉強をふだんからしておく必要があるということでしょう。最近のお子さんっていうのは、ものを書く作文力と言いたい事をきっちりとしゃべる表現力が非常に欠けているんですよね。おそらくそれは、家庭での基本的なコミュニケーションの不足や、テレビならテレビっていう一方的な情報に対して、ただ受身になっちゃってるところに問題があるだろうと思うんです。

■言葉をイメージできる子とできない子では急速に差がつく

 ここで勉強ってことに還元して言いますと、やる気の第一歩というのは、言葉についてどれだけ達者になれるかってことが非常に大きいと思います。私は、いつも申し上げてるんですけど学年でいうと、小学校3・4年、特に小学4年生が、キーポイントになる学年だと思います。現在、3・4年のお子様をお持ちの方は特に、注意して聞いていただきたいんですけど、この学年になると言葉でも、慣用句とかことわざとか抽象的なものが多くなってくる。漢字なんかでも非常に抽象的なものが多くなるんですよね。子どもってのは、現実にあるものについては非常に強いです。その半面、現実にないものについては大変弱い。
 幼児なんかで実験してみるとよく分かるんですが、例えば動物の「麒麟」って字がある。大変難しい字です。キリンそのものは、図鑑なんかで首の長い動物だって、子どもたちはよく知っています。それで5歳ぐらいの子どもに「これ“麒麟”って字だよ、漢字で書くとこうなるよ」って見せます。その後、いろんな漢字を書いた紙切れの中に、その「麒麟」をワーッとまぜちゃう。そこで、キリンを探してごらんって言うと、子どもたちはすぐに探します。あの大変画数が多くて難しい漢字をです。同じような手順で、これもまた難しい漢字なんですけど、動物の「駱駝」って字を探させる。これも簡単に探し出します。ところが例えば「心」とか「思考」「思想」とかいう字−いわゆる形のない概念−について漢字ってのは、非常にイメージしにくいんですよね。子どもたちにとっては、“心”って何かなんて分からないでしょ。
 そういう形のないものって非常に分かりにくい部分がある。漢字そのものは画数が少ないのに実際覚えにくいという部分がある。ですから教育課程なんかでも、今のような順序で教えていくのかどうかってことは、私なんか正直申しましてだいぶ疑問ですね。漢字なんかむしろ、具体的なものについては、頭が柔らかいうちに覚えられるだけ覚えちゃった方がいいんだと思うわけです。何も3年生になって120字、4年生になってまた120字なんて決めること自体おかしいですよね。
 それで、イメージしにくいものや、心の中にある像が浮びにくいものは、子どもたちはとても苦手としていまして、言葉のそういう解釈は、具体的に小学4年生ぐらいから急激に多くなっていきます。例を挙げると、あの「サルも木から落ちる」ってことわざも、サルが木から落ちたんだなぁと笑っていたんでは、その意味が分かったことにはなりませんよね。つまりその事実によって、別の事を考えなきゃいけないわけです。そういうことがすっと心の中に入る子と、それから事実だけ見ちゃってる子とでは、小学4年生ぐらいから急速に差がついていくんだろう、という気がするんですね。
 やっぱり言葉の意味とか、その深み、膨らみなんかがよく分かっている子ってのは大変に強い。別に統計を取ったわけではありませんが、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に住んでる子っていうのは、例えば「おまえ、石の上にも3年ってことがあるんだぞ」なんて調子でことわざや慣用句を多く聞かされる。どうもそういう子どもは、やはり言葉そのものに強い気がするわけです。ですから言葉ってものを、もっともっと大事に訓練していくことが必要で、本なんかもどんどん読んでいった方がいいんです。

■イメージがわかないから分からない

 ついでに算数のことについて触れておきますと、やっぱり小学4年生がキーポイントになってくる。というのは、この学年で初めて入ってくる“分数”っていう概念がおそらく勉強嫌いになる第1の要素として挙げられるようなんです。なぜなら、この分数っていうのが分からなければ、後の5・6年生ないし中学以上が非常に厳しくなってくるからです。それでは、なぜ分数につまづくのかと言いますと、4年生の場合2足す3なら分かるわけです。みかん2個とみかん3個で合計5個ってのは分かる。ところが1/2足す1/3っていうのは、分母同士2と3を足したら5になる、分子の1と1を足すと2になるという間違いをよくやる。でも子どもって、そうやってしまうところがある。
 分数っていうのは、そういう意味で、具体性を欠いている抽象概念だから、そこでつまずいちゃうと、5・6年生の“割合”や“比”、さらには中学校での文字式がわからなくなってしまう。特に小学生の場合、分数のところでしっかりと時間を使って取り組むことが必要だと思うわけです。そういう意味で、言葉の問題であるとか、分数なんかもそうですが、少しポイントを絞ってふだんから気をつけてやっていると、随分違ってきます。そういうところを了解しないで、むやみに、ただやりなさいって言われても、なかなか子どもには伝わらないものです。よく算数の問題を解いている子どもに、もう少し考えてごらんって言うんですけど、結局考えられないんです。文字面だけをただ2回なり3回なり読んでいるだけでは、イメージにならない。イメージにならないからちっとも発展しない。どうも「分からない」って部分は「イメージがわかない」っていうことに大きな原因があるように思われます。
 それと、人間というのは放っておくと、ある一定の考えにどんどんのめり込んでいく傾向がある。例えば、この人が気に入らないと思うと、気に入らないところだけにグーッと意識が集中してしまう。神経科の医師や心理学者なんかが、ノイローゼの患者を治療する場合、とにかくいろんな話をするらしいんですね。つまり、いろんな話をすることによって、縛られちゃってる心を、とにかく解放してあげるわけです。どうも、人間っていうのは、日常生活の中で、凝り固まってしまうようなところがあるような気がしてしようがないんです。それをワーッと広げていくようなイメージづくりをしていくことが勉強なんかでも非常に大切なんじゃないかな、って思うわけです。

■国際化・情報化の時代の教育の在り方

 いずれにしましても、今どんどん時代が変わってきていますね。一つは情報化社会っていうことで、コンピューターの時代になってきてる。今、もうどこの事務所に行きましても、コンピューターが置いてあります。私どもも、全国のコンピューターのネット化っていうものを今、考えておりまして今年の4月から稼動する予定なんですが、もう本当にひしひしと“機械の時代”の足音を感じるわけです。
 それともう一つは、“国際化の時代”だと思うわけで、この後、桐島先生の方からいろいろお話があるかとは思うんですけれど、今現在、日本から海外に行ってる方っていうのは、大体年間で600万ちょっとくらいですよね。これが後12、3年すると約2000万ぐらいまでいくだろうと予測されています。それと、海外から、今、来ている人が約200万人ぐらい。これも2000年の初頭ぐらいには、600万から700万近くいくだろうといわれています。まさに国際化時代ですよね。
 そういう世の中の流れの中で、与えられた問題をいかに正確に早く解くかっていうことなんかでは、もはやコンピューターには勝てなくなったわけです。今までの日本の教育っていうと、この与えられた問題をいかに正確に解くかっていう機能、つまりその左側の脳、左脳ですね、この左脳の働きを問うてきたわけですが、これからは、むしろ突拍子もないことを思いついたり、考えたり、どちらかというと音楽とか絵とかそっちの方面の才能−つまり右脳の働きですね。この、今まであまり評価されなかった右脳の働きを問う教育に変わってくるんではないかと思うんです。

■「新しいものを創りあげていく力」を育てたい

 今までの日本は、アメリカって先進国があって、そこで作られた問題を正確に速くまねればよかった。ですから、ファーストランナーになっちゃった。そうすると、今度は問題を与えられるんではなく、その問題自身を作っていかなきゃならない時代になってきてる。もう大企業なんかは、まさにそうなってきてると思いますよ。大企業でも、ただいい大学からその企業に入ればいいという時代ではなくなってきてると思います。大企業の中で、いかに新しいベンチャービジネスっていいますか、新しい地域仕事を作っていくか、実際、作っていける人が求められる時代になってきたわけで、そういう時代の変化の中では、先ほどから申し上げてきましたように、創造力といいますか、新しいものを創りあげていく力っていうものを養成していかなきゃダメだと実感するわけです。
 例えば、ちょうど10年ぐらい前ですと、よくできる子どもたちっていうのは、皆お医者さんになりたがったものです。でも10年経ってみると、お医者さんが今、非常に余っちゃってる、ということが言われてますよね。昨日も、東京のある会合に出席したんですけれど、ちょうどそんな話になりまして、どうもこれからは病気を治すお医者さんだけじゃなくて、病気を作る人−病気を作るってのも変な話ですけど(笑)−をつくらないと、お医者さんが余り過ぎるんじゃないかってぐらい多くなっちゃったらしいんですよ。
 私事で恐縮なんですけど、私はちょうど42年に大学を出まして、あの40年から42年ぐらいっていうのは、ご存知のように重厚長大型の新日鉄とか日本鋼管とか、みんなそういった関係に行きたがっていたわけですよ、ところが20年経ってみると、そういうところで人はいらない、何とかして人をほかに回したいというふうになってきてる。そういう意味では、10年とか20年の長いスパンで物事を見るって部分も必要だと思います。それは、先読みのできる子を育てるということだけを指すのではなく、むしろ、どういう時代の変化が起きようとそうした時代を柔軟にとらえる力こそ必要なんだと思います。経験の枠の中でのイメージではなく、未来に向っての柔軟性でイメージをはぐくむような教育が必要とされているということではないでしょうか。
 今、現在の、テストだけで判定する形の教育ってのも、それなりに価値がないとは思いませんけれど、これから先、もっともっと多様化していくことは間違いないんじゃないかって気がします。時代が本当にこう変化していく中で、やっぱりご家庭自体で、社会的な部分で言えば、われわれのような学校以外の民間教育団体なんかが、子どもたちに負けず劣らず、未来に向って頑張る。つまり、先ほど言いましたように継続的な努力をし続けて、やる気を出すっていうか。やっぱりわれわれ自身がやる気を出すってことで、そこに接した子どもたちもやる気が出てくるんだろうなあというふうに思うわけでございます。
 やる気を出すっていうのは、本当は難しくてですね。短い時間にうまくまとまらず、あっちこっちの話が飛びましたけれど、私の話はこのくらいにさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

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