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1986年(昭和61年)7月

出会い〈2〉父

■人生の節目 そこには必ず父の信頼があった

 父の生家のすぐ近くを歌に名高い千曲川が流れていた。そして、その東の方向には太郎山と呼ばれる小山があった。幼い頃の私の一日は、その太郎山に向って両手を合わせ、母とともに父へのあいさつとお祈りをすることから始まるのだった。太郎山のずっと向こうには東京があり、そこに父さんがいる、と聞かされていた。昭和20年、満3歳であった私は、東京の戦禍を逃れて父の生家のある長野県上田の在に疎開し、昭和24年まで母とその地で暮らした。精神形成の上で重要といわれる幼年期を、私は東京に残った父と離れて暮らしたわけだが、太郎山の向こうの見えない父に毎朝手を合わせることで、父の存在を十分意識することができた。見えない父は、いつも一生懸命働いている父であり、母と私のために頑張ってくれている父であった。朝食と夕食の時には、上座に父のための席があり、必ずご飯とおかずが添えられた。おかずが足りないときには(その方が多かったのだが)一度父の席に添えられたものを、私がうやうやしく一礼をして、おさがりとして貰うのだった。そのようにして、見えない父からいただいた例えば一匹の秋刀魚を、私と母は何度分け合って食べたことだろう。こうして私は、疎開の間、父に直接会った記憶がほとんどないにも関わらず、父は大きな存在であり、私達を遠くから見守り、理解してくれる大きな存在であるという思いを強く持つことができたのだった。
 父さんに見て貰っても恥ずかしくないように−母はいつもそういっていたように思う。幼稚園には行けなかった私が、小学校に入る前に読み書きができるようになったのも、そんな母に時々「お勉強」を教えて貰ったからだ。見えない父に安心してもらうということで始めた「お勉強」であったが、この家庭学習の習慣は、後々の私に随分大きな影響を与えた。私は知らず知らず、勉強とは学校で習ってからするものではなくて、家庭で自分で習うものである、という考えが身についていたのだ。この「自学学習」の習慣は、高校時代にはプラスに働いたとはいえなかったが、大学に入ってからの勉強や社会人となってからの私の実力向上には本当に役立ったと断言できる。
 さて、父は農家の長男に生まれながら、家を継ぐことをせず、東京に出て建具職人となったのだが、当時の田舎の常識からすればとても大胆な行動であったらしい。しかし、父は信州人特有の勤勉さとねばり強い性格によって職人としての腕を上げ、次第に人望を勝ちえていったようだ。戦前には結構手広く木工場を経営し、町内会や組合の役員などもたくさん努めるようになっていたのである。がん固ではあったが、無類のお人好しでもあった父は、この当時いくつかのエピソードを残している。例えば、父が仕事をした新築間もない家が倒産して、納めた建具の代金が取れなかったことがあった。他の業者が金目のものを全部持っていってしまった後で、父はその家の飼犬を一匹貰って帰ってきたのだそうだ。「しょうがない。こいつしか残っていなかったんだよ」−エスと呼ばれたその犬は、長らく家族の一員としてかわいがられたそうである。「人間、人をだますようになったら終わりだ」「だますよりはだまされた方がまだいい」父は自分の人の好さを母などから笑われると、まじめな顔をして、きまってそんなことをいった。
 戦争で工場などを全て失った父は、戦後は一職人として他人に使われる身となった。関東大震災の時と同じくゼロからのスタートであった。すでに50歳を超えていた父にとって、精神的にも肉体的にも非常につらい再開であったにちがいない。この頃の父は、自らの事業欲というよりも、3人の息子(私と兄2人のことだが)に学問をつけ、できれば大学にまで進ませたい、という願望によって仕事にはげんでいたように思われる。学問をしたくてもできなかった自らの青春への悔恨があったのかもしれない。あるいは、仕事の上で、学校を出ていない無念さをいく度か味わっての結果であったかもしれない。衣食にも事欠いた戦後の厳しい環境を思えば、「腕一本で3人の息子を大学に入れる」という父の思いは、実に尊いものであったとしかいいようがない。そして、父の期待に応えて、苦学して学業を終えた兄達2人もまた立派だったといわざるを得ない。
 考えてみると、父に一番心配をかけ、時に期待にそぐわない行動をしたのは、他ならぬ三男の私であった。中学時代までは、前号に書いた小4の時の万引き事件の他は、いわゆる模範生であった私なのだが、高校で事情が一変した。
 当時東大に50〜60名の合格者を送る名門校であった都立両国高校に、レベルの少し低い中学から入った私は、最初から進度や難易度のギャップに悩まされた。その上、先生達が厳格で毎日の宿題も多く、2〜3日おきにノート点検もあった。私はこうした高校生活に馴染めず、授業を抜け出すことが次第に多くなった。近くの図書館や荒川の土手に行って、漱石や鴎外や小林秀雄などを読むようになっていった。国語や世界史など、一部の得意科目を除くと、学校の勉強はまったくつまらなくなっていった。高2の時には「高校を辞めて、検定試験で資格を取って東大へ行く」と本気で考えていた。担任の先生から説得され、物理や化学や英語などの追試験を受けて留年だけはさけられたが、成績は急降下、父を随分がっかりさせたことに変りなかった。そんな高校生活がたたって、私は東大受験には2度も失敗したのだが、父からは非難めいた言葉や恨みがましい言葉をまったくといっていい程聞いたことがない。「また頑張るさ」父はいつもそういってくれたのだ。
 京大への合格が決まった時、それが二浪の結果であったにも関わらず、父はわが事のように喜んでくれた。毎月生活費をきちんと送ってくれたのだが、現金書留の中にはきまって父の自筆の手紙が入っていて、母や兄達の近況や仕事のことが書かれていた。最後はかならず、家のことは心配せずに頑張って学業にはげむように、としめくくってあった。後に母から聞いたところによると、父は、私への仕送りの日には朝からそわそわして「これを待っているぞ、早く送ってやらないと」といいながら、郵便局に書留を出しに行ってくれたのだという。私はといえば、生意気にも時代や社会にブツクサと文句をいい、その一方で自由な大学生活を満喫していた。まさに「親の心、子知らず」だったのである。
 その頃父は、私を学者にしたいと思っていたようであった。4年になって就職はせずに大学院に進みたいとの手紙を送った時、即座に賛成してくれた。だから、もし大学が今のように平穏な状態なら、私は修士課程から博士課程へと進み、今頃はどこかの大学で美学か文芸論を教えていたのかも知れない。折から全国の学園を揺るがせた「大学紛争」がなかったならばの話である。
 活動家でも何でもなかった私が、何故大学院を2年にしてやめたのかは、そして、その決断がまた父の期待に反することになったのだが、この小さい紙面では説明しにくい。とにかく、私は社会に出ようと思ったのだ。社会に出て、思い切り自分をぶつけてみよう、そう考えた私は、小さな広告会社の営業の仕事についたのだった。その時の気持ちを父には長文の手紙にして送ったのだが、父の返事は「君がよくよく考えて決心したことならそれもよかろう。頑張ってやってみなさい」というものだった。恐らく父は、私の真剣な気持ちを心のずっと深いところで了解してくれ、落胆をかくして私をはげましてくれたのだと思う。俺の息子のやることだ、仕方がないじゃないかという思いと、この息子なら何とかやってくれるだろうという思いが、父の中でいつも交錯していたのではないだろうか。思えば、父は私の人生の節目節目で実によく私を見守ってくれていたのだと思う。つかず離れずの距離を保ちながら、時には意見をいい、時にははげまし、そして最後にはいつも私を信頼し、私の行動に賛成してくれた。父子の対話がそんなに多かったわけではない。学校や進学問題にもふだんはむしろ聞き役で、そんなに積極的に口を出したわけでもない。私の記憶にある父は、いつも木材を削り、切断し、それを組み立てている父であった。しかし、肝心な時にはだまって、そこに存在し、私の行動を認めてくれる人なのであった。
 父は、私が能開センターの教室を西日本に拡げようと頑張っていた昭和54年の5月に、ちょうど福岡校の開校と時を同じくして亡くなった。83歳であった。父危篤の報でかけつけた私が、ガーゼに水を含ませて父の口もとをひたした時、昏睡状態を続けていた父がわずかに口を動かしてその水分を吸うかのように思えた。それが私と父の最後となった。数分後に父は静かに息を引き取った。私はその時、父の死というより、むしろ今静かに一生の活動を終えたばかりの一人の男の人生の軌跡に心をうばわれていた。明治、大正、昭和の激動の時代を生き抜き、大震災や戦争にも屈せず、息子3人を大学へという目標をもって焼け跡の中から立ち上がった男、言いたいことも言わず、名を残すこともなく、それでも力いっぱいに自分の人生と戦った一人の男の生き様に深く心をうたれたのだった。「おやじ、ご苦労様。今度は俺たちの番だよ。俺たち兄弟でおやじの思いを継いでいくよ」私は次第に冷たくなっていく父に向って、何度も心の中で語りかけていた。
 (昭和61年6月25日 記)

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