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1986年(昭和61年)11月

出会い〈4〉先生

■心に残る恩師 その人間的魅力

 小学校から大学まで16年間の学園生活の中で、何十人という先生と出会い、教えを乞うてきたわけだが、ここでは高校時代までの先生で特に強く印象に残っている方々について記してみたい。
 東京江東区の東陽小学校では、小学3・4年に習った木島先生が何といっても印象深い。東京学芸大学を卒業されたばかりの女の先生であったが、何ごとにもいっしょうけんめいに取り組まれた。やせていて少し体が弱いということだったが、昼休みや放課後にも私たちといっしょになって遊んでくれた。ある日、ドッジボールをしていた時に丸本君といういたずら仲間の1人が、ボールを追いかけている木島先生にまとわりついて足をひっかけてしまった。いきおいのついていた先生は、あっという間もなく頭から地面につっこんでしまった。「わぁーい、先生が転んだ」誰かがはやし立てると、そのあまりのころびっぷりのよさに、見ていたみんながドッと笑った。先生はいったん起き上がりかけたが、すぐに頭をかえたままシクシクと泣いているのであった。大人の先生がころんで教え子の前で泣くのだからよほど痛かったに違いない、と私たちはその時思っていた。何人かの女の子がもらい泣きした。丸本君も先生の横に座って目をしょぼつかせていた。先生が子どものように泣いた。この日のことは、私たちのクラス全員の心の中の事件となった。一方、先生はとても厳しい面もあって、学期ごとに返却される通知簿には生徒1人1人の欠点や問題点が指摘されてあった。私はよく「少しわがままで強情なところがある」と書かれていて、それを読んだ母に「あんたの事をよく見ている。若いけれどえらい先生ね」といわれたものだった。前にも書いたが、私と仲間とで万引き事件を引き起こした時には、厳しく叱られた後1時間ぐらい黙って立たされた。最後に先生は涙のいっぱいたまった目で一人一人を見て「悪いことをしたの、わかってるよね」といって解放してくれた。この件によって学校内での先生の立場がどんなに辛いものになったか、今にして思ん推るのである。
 小学校時代の思い出の先生に、もう1人図工を教えていただいた関口先生がいる。天然パーマの髪と四角ばった顔とグリッとした目をしていた、今でいえば写真家の篠山紀信のような感じの先生であった。実は私は小学1年の時からきれいでない絵を描くことで有名であった。何を描いても画用紙からはみ出しそうになってしまい、色をぬっても何となくいろんな色をぬりたくってしまい、要するにきれいでない絵になってしまうのだ。パリから帰られたばかりの関口先生が、どういうわけかそんな私の絵を認めてくれて、区や都の連合展覧会に何度となく推選してくださった。4年生の秋に神宮外苑で読売新聞社の主催で東京と関東近県6県の学校代表による絵画コンクールが行われた。私は数名の同校生と関口先生に引率されて参加し、ある樹木の写生をしたのだが、例によって画用紙いっぱいの構図に赤や白や黄色のクレパスをぬりつぶしていって、自分で見てもちょっとおかしい樹木の絵が出来上がった。「西澤君がムチャクチャ描いています」という仲間の声に関口先生がとんでこられ、じっと私の絵を見ていたが次のように言われたのだ。「みんな見てみろ。西澤君が赤い木を描いたぞ。こんな木は外苑のどこに行ってもない。西澤君がこの画用紙の中にまったく新しく誕生させた木なんだ」後日、この絵は小学の部の優秀賞に選ばれ、新宿の伊勢丹百貨店の正面入り口に1ヶ月にわたって展示された。区の展覧会の時とはくらべものにならない位の立派な賞状とたくさんの賞品をいただいたのであった。絵は見えるままにではなくて、思うままに描いたらよい、関口先生の評価の中から、私は私なりにそんな確信をいだいたのだった。
 中学校は区立の深川四中に行ったのだが、この時代の思い出の先生は2年と3年の担任であった坂本タカ先生である。当時40歳を少し越えておられたと思うが、地味な服装のためか「おばあちゃん」とあだ名されていた。保健を教えておられたのだが、先生のお人柄を反映してか、そのクラスはとても明るい自由な雰囲気のクラスであった。番長格の暴れん坊も坂本先生にだけは頭が上がらなかった。ちょっとでも慢心したり、驕りたかぶったり、人に迷惑をかけたりすると、先生の辛らつな皮肉や叱責のひと言がとんだ。先生は戦前からの古い木造の教員住宅に、髪のまっ白なお母さんと大きな猫といっしょに住んでおられ、私は仲間達と卒業後も含め何度もおじゃましたのだが、あくまで質素な、それでいて人のあたたかさの感じられる生活風情であった。私たちが相当な毒舌をはかれても坂本先生にだけは頭が上がらなかったのは、そういった先生の人となりを子どもながらに感知していたからに違いない。
 岩堂徳子先生も中学時代の忘れられない先生である。先生は中学2年の1学期に教育実習生として2週間ほど国語を教えられたのだが、デビュー間もなかった女優の浅丘ルリ子に似た、目の大きな清楚な感じの美人であった。楽しいことの多かった中学生活であったが、特に岩堂先生が授業にこられた2週間は、私たち仲間にとってキラキラと輝くような日々であった。先生のような教育実習生に当たったことが、何かものすごく得をしたような感じで、少なくともその期間はみんな本気で国語をいっしょうけんめい勉強したのだ。私は、さらに幸運なことに、岩堂先生からお褒めの言葉を授かった唯一の生徒となったのだ。実習の終りが近づいた頃であったと思う。先生の時間に自由題の作文を書くことになった。私はいつも作文にはいいことを書こうとか上手に書こうとかの意識ばかりが先に立って、ほとんど筆が進まないのだが、相手が岩堂先生ではなおさらであった。仲間の何人かもほとんど書けていない状態であった。すると岩堂先生が、澄んだはきはきとした声で「みんな、上手に書こうとしなくてもいいのよ。心の中でくよくよ思っている事や、自分だけ知っていてもったいないなあなんて思うことを先生やこのクラスのみんなに聞いてもらうつもりで書いてください」といったのだ。くよくよ思っていることがいくつか浮かんだ。その第1は、私の頭の後の方に小さなハゲがいくつかあって、坊主頭にハン点が出来てしまうことであって、散髪をした後などは特に目立つので、少し髪の毛が伸びるまでは日頃の元気さの20パーセントを出しおしみしたりした。そのあたりの事情を「ジャリッパゲ」という題で書いて提出した。翌日岩堂先生が「西澤さんの作文はとてもよかったわよ」といって、みんなの前で読まされた。絵について関口先生から教わったように、作文について岩堂先生から何かを教わったのは確かである。
 さて、都立両国高校時代は、前にも記したように成績がもうひとつだったのと書物を師とするところがあって、旧三校以来の伝統ある校風と立派な先生方になじめなかったのは残念であった。そんな中で世界史の関根先生だけは、何故か私の心をとらえて放さない先生であった。授業がすこぶる変わっていて、歴史上の大きな事件とそれに関わった人物に関してちょっとしたエピソードなどを、実にくわしく知っておられ、たとえば日露戦争の日本海海戦の模様を時間を追ってドキュメンタリー風に黒板をいっぱいに使って解説したり、ナポレオンの盛衰を彼の性格や心理的コンプレックスから解き明かしたりした。ホームルームの時など、どちらかというと口ごもるような話し方の先生が、歴史の授業では「この時ナポレオンはこう考えたんですね」というように断定的な言い方をされるのがおもしろかった。お蔭で世界史の授業だけはとても楽しく、大好きな科目となった。京大の入試でもほとんど満点がとれたと思う。私が能開センターを始めて、教える立場の自分に課したモットー「楽しい授業こそ力をつけられる」は、関根先生に影響されてのものであった。先生は私たちの卒業アルバムに「郷に入っては郷に従え」と書かれた。その言葉に、先生ご自身のどのような人生がこめられているのかと、真剣に考えてみた記憶がある。
 こうして遠い過去を思い起こし、教えていただいた一人ひとりの先生について考えてみても、何をどのように教わったのか、ほとんど具体的なことは浮んでこない。むしろ、先生のお人柄や生きる姿勢のようなもの、あるいはそれらをひっくるめたその先生自身の人間的魅力などによって強く印象づけられるといえるのかもしれない。そして、その印象が強ければ強いほど、現在ある自分の形成に測り知れない影響を受けたといえるのかもしれない。長らくごぶさたを重ねている先生だが、もしどこかでご健在なら、私がたまには昔を思い出し、そのお顔をなつかしみ、今ある自分を育てていただいたことに秘かな感謝のことばを贈りつづけていることを、想像ぐらいはしてくださっているであろうか。

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