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1981年(昭和56年)

親の役割・子の役割 -受験を通して何を学ぶか-

対談者:灘中学・高校名誉校長 勝山正躬 先生
能開センター代表 西澤昭男

■親の権威より、親子のふれあい

西澤:
一昔前と比べると、親の権威というものが、全体的になくなってきているとよく言われるようですが、先生はどうお考えですか。
勝山:
よく、そういうふうに言われますけどね。私は、やっぱり権威をもっているご家庭も少なくないと思っています。私の家なんかでも、昔とそんなに違いはありませんしね。権威は認められていますよ。そら、こんなに人間の数が増えて、いろんなご家庭があるんですから、中には親の権威のないところも出てくるでしょうがね。
西澤:
親と子の関係で、昔と変わったというところがあるとすると、どの点でしょうか。
勝山:
そうですね。親が、子どもと昔ほど接しなくなっていますね。以前は、もっと親子の間の接触が多かったような気がします。だから、親の権威がなくなったというよりも、いまは人間的ふれあいがあまりないんでしょうね。母親に全てを押し付けてしまう。考えてみれば、女のひとはたいへん気の毒ですよ。
西澤:
ところで先生ご自身のお父さんやお母さんは、どんなお人柄の方だったのですか。また、どのような教育方針で臨まれていたのか、非常に興味のあるところなんですが、ひとつこの機会にお話していただけませんか。
勝山:
父親は、私が中学3年のとき、亡くなったんですが、厳しい人でしたね。にらまれると、こわかったですよ。また、よく勉強をしてましたね。漢籍なんか、とてもよく読んでいたし、地理とか歴史とか、学校へ行かなくても、ちゃんと勉強しているんです。頭が上がらなかったし、子ども心に感心させられたものですよ。母親は、穏やかな婦人でした。勉強しろとか、なんにも強制をしなかった。だから、反対にやらなあかんという気持ちになるんですね。不思議なものでした。いい加減なことやってられない、と一生懸命でしたよ。
西澤:
なるほど。家庭環境が大切なのですね。ところで先程の親子の接触がなくなって、母親に全てを押し付けてしまう、というお話ですけど、最近のお母さんの子どもの教育に関する考えは、いかがなものなんでしょうか。
勝山:
ひと口に言って、以前に“教育ママ”と騒がれたころから比べると、いまのお母さんは賢明になってきていますね。なにがなんでも有名校、というんではなくなってきています。子どもにとって、どのへんの学校が適当かと考える母親がふえてきている。これは、いい風潮ですよ。

■「努力半分、素質半分」を見極めること

西澤:
それには、賛成です。よく、なにがなんでも志望校へというお母さんがいます。気持ちはよくわかるんですがとても困るんですね。入試では、相当に努力をしてもだめな場合がある、ということがわかっていただけない。先生は、そのへんをどうお考えですか。
勝山:
私はいつも、努力半分、素質半分というてます。ある程度は、もちろん努力さえすれば合格する、というものでもない。素質が必要になってくるわけです。
西澤:
努力すれば行けるのか、また、いくら努力しても無理なのか。そこらへんの見極めは、たいへん難しいものになりますね。
勝山:
親は毎日、子どもを見ているんですから、それはわからないといけませんよ。わかりません、という親は無責任。よく見てないからで、ちゃんと見るところを見ていたら、だれでもわかりますよ。
西澤:
確かに、それはありますね。私のところでも、たくさんのお子さんをお預かりしているんですけど、たとえば灘中なんかを想定した場合、三、四年生くらいで、あっ、この子はいけそうだなとかいうのが、ある程度は見極めがつきますね。
勝山:
その通り。わからないはずがないんですよ。ただ、親の場合、少し子どもを過大評価する傾向があるので、それはやめておいた方がいいですね。むしろ低めに評価しておいたほうがいい。親と子の「車間距離」をしっかり保って、子どもを冷静に判断することが必要なわけです。
西澤:
先生のおいでになる灘などの場合、みなさん、できれば東大へ、とお考えだと思うんですけど、進学指導のほうはどのようにされておられるんでしょうか。
勝山:
なにがなんでも東大というようなことは、いまはもうそんなにありません。みんな賢明になってますよ。むしろ、その子に合ったところへ進学させる、ということですね。ただ、第一志望の大学には、ちょっと無理だなと思っても、一回は受けさせることはあります。一浪は仕方ない場合もある。できるだけ二浪はせんようにさせていますがね。

■最終的には、やはりお父さんの判断

西澤:
なるほど。そこが、ひとつのポイントといえばそうですね。家庭の教育でもまず挑戦してみなさい。だめだったら、こういう方向へ転換しよう、とはっきりとした方針で臨めばいいわけですね。それにしても、いくら冷静に子どもの評価をするといっても、子どもの将来をある程度決めてしまう進学の際の見極めは、かなり難しいと思うんですが、子の場合、お父さん、お母さんのどちらが最終的に判断すればいいのでしょうか。
勝山:
それは、お父さんのほうが適していると思います。どちらかというと理性的だし適切な判断がつきやすい。肝心なところでバシっと決められるのはやはりお父さんの方でしょう。
西澤:
うーむ。大事なところでは、やはりお父さんの登場というわけですか。ところで、お父さんにしても、またお母さんにしても、家ではどう勉強を教えたらいいのか、という質問をよく受けるんですが、先生はその点についてどうお考えですか。ご存知のように、親の時代とは学習内容がちがってきているし、また難しくなってきていると思うんですが・・・・・。

■親は子どもに勉強を教えなくてよい

勝山:
私はね、よくお話しますけど、親は家で子どもに勉強を教えなくてもいい、と考えています。私のところには、孫になるんですけど、なにか質問してきても、なるべく答えないようにしているんです。なんとか、自分で疑問を解決するようにしむける。教えてしまうとだめですね。辞書なんかでも、できるだけ近くに置いておいて、子どもと一緒に引くことですよ。それに間違ったことを教えたとき、これは非常に困ります。先生の説明と異なっているなら、子どもはどちらを信用したらいいのかわからなくなる。だから、しっかりした学校なり、塾なりにお子さんを預けているなら、親はそちらを信頼して家で勉強を教えないことですね。
西澤:
私のところでは、冬休みなどに講習会があって、宿題を相当出す時があるんですが、お父さん、お母さんから「子どもに教えていたら、夜中までかかってしまった。こんなに大変な宿題は出す方がまちがっている」と、お叱りを受けることがあります。力をつけるために、やはり量をこなさなくてはなりませんので、宿題を出すわけですが、それを子どもがどれだけがんばってやりとげるか、ではなくて、形として完成させておこうということで、お父さん、お母さんが手を貸してしまう。そういう親と子の関係に時折出くわすわけですが・・・・・・。
勝山:
できるだけ自分でやるようにしむけることが大切ですね。わからんことは調べてみる。それでもわからんときは、学校なり、塾なりの先生に聞いてこい、でいいんです。

■親が教師になれるのは、生き方を教える時だけ

西澤:
なるほど、いかに子どもを突き離して、自立させていくかということですね。と言っても、それは決して子どもの教育に無関心であることではないわけですね。距離を置いて、見守ってやる。また、ある程度の指針を与えてやる。そういう態度が大事なんでしょうね。
勝山:
おっしゃる通り。勉強を教えるんじゃなくて、勉強のやり方をアドバイスする。子どもの視点を別の方向へ向けさせたり、補ってやる、ということでしょうね。親が教師になれるのは、生きるために必要な知恵を教えるときだけですよ。
西澤:
小学校の上級生から中学生ぐらいの子の中には、なんで努力して勉強やらんとあかんねん、と心のどこかで思っている子がいます。生き方の問題とも関連してきて、明快な答えをだすのがちょっと難しい子ども特有の疑問なんですが、先生ならどうお答えになりますか。
勝山:
なぜ勉強するか、という問いに対しては、自分自身のために勉強するのだ、と答えるようにしています。昔は、世の中のため・・・・・・なんてこともいわれてきましたが、子どもにはもうひとつよくわからない。やはり、いろんなことが理解できる、手にとるようにわかる、というのは喜びのひとつなんで、自分の幸せにつながっている。また、努力して勉強するほうが、生きていく上で得になることが多い。そういう個人の幸福の追求があって、そのあとに世の中の役に立つなんてことも出てくると思うんです。
西澤:
個人の幸福が、全体の幸福のそのまま直結するというのは、そうでない場合もありそうで議論のあるところだというような気もしますが、ひとつの理想であることに間違いはありませんね。先生は、以前に“受験地獄”ということばはもう使うな、といわれたことがあると記憶しているんですが、勉強が強制ではなく、個人の幸せのためにやるものだとしたら、やはり地獄ということばは不適当になってきますね。
勝山:
できる生徒のほとんどは、地獄だなんて思うてませんわ。苦しいと思ってやってませんよ。楽しみながら勉強している。「お父さんとお母さんは勉強せんでもいいからええなあ」などと、よくこぼす生徒もいますが、どうも勉強だけが仕事やと誤解していうふしがある。そんな子どもには、親も含めてみんな仕事しよるんやということをわからせることが必要でしょうね。

■基礎学力なしに、創造力や独創性は生まれない

西澤:
去年、たまたま機会があって、アメリカを駆け足で歩いて来たんですけど、向こうに行ってみて、日本と比較した場合、日本の長所が目についてしまう。一般的な生活レベルもなかなかのもんだし、サービスや治安もいい。住むのにもまあまあ快適。国民全体の知的レベルも相当なものだ、と考えたとき、日本の現在を支えているのは知識偏重と言われようが、独創性がないと指摘されようが、結局はこれまでの教育の力ではないか、ということに思い当たったんです。入学試験についても、国民全体のレベルアップに大きな寄与をしてきたとも言えるわけで、受験にもっと正当な評価をしないといけないのではないか、と考えながら帰ってきました。
勝山:
人間の独創性ということと関連して、よく形成教育か開発教育かということが議論されるわけですが、いくらかっこうのいいこと言っても、基礎的知識や技術のトレーニングなしに、つまり形成教育なしに、独創性などを育む開発教育ができるわけがないんです。ひとつのアイデアを出すために、どれくらい基礎的な努力をしなければならないか・・・・・・。私は地味な基礎学力があってはじめて、創造力や独創性が出てくると思うんです。知識偏重と批判される受験勉強ですが、そういう意味からいえばきわめて重要な意味を持つし、また創造力などについても、十分に受験勉強の場で鍛えることが可能だと思うんですよ。

■受験だけで教育を語らないでほしい

西澤:
いまの世の中、教育の荒廃、崩壊などということがよく話題になり、それが本当にそうなのかということについては、また議論の分かれるところでしょうが、新聞、テレビ、週刊誌なども、よく特集をやっていますね。そういういわゆる「教育の荒廃」が、ときどき受験の状況と短絡的に結びつけられたりすることがありますが、先生のご意見は?
勝山:
私はね、そんなにやかましく言う必要はないと思うんです。決して、そんなに教育の現場が荒廃しているとは思いませんね。大多数は、健全にやっていると思いますよ。教育の将来については、そんなに悲観していません。むしろ、ほとんどの先生は、ようやっとられるんじゃないですかね。そりゃ、こんなにたくさんの学校と先生が存在するわけですから、中には一部で言われるようなところも出てくるかもしれませんけどね。
西澤:
受験があるから、校内暴力があり、教育が荒廃するというのは、あまりにも性急な短絡的な結論でしょうね。アメリカのカルフォルニアなんかで話を聞きますと日本どころではないようなんですね。トイレでのたばこなんかで話を聞きますと日本どころではないようなんですね。トイレでのたばこなんか当たり前。麻薬を吸ったあとが残っていることもある。新しい教室に入れられた教材が、その日のうちに全部盗まれていたりするんです。発砲を認められたパトロール担当の警備会社が、学校と契約して見回っていたり・・・・・・。学校教育の場の混乱は、いまの先進国全体に共通しているもののようですね。とにかく、受験の問題を誇張するあまり互いに競い合うことの意味や目標に向って辛い努力を重ねることの大切さを忘れて、非常に楽な生き方を求めてしまうとしたら、それこそ問題だと思うのですが・・・・・・。
勝山:
同感です。現状の教育に決して問題がないわけではないが、うまくいっている部分をもっと評価しなければいけない。問題が起こると、「受験勉強」や「受験戦争」を悪者にしたてて、短絡的に結論を出してしまう体質というか教育現況こそがもう一度見直されなければならないような気がします。
西澤:
そうですね。とにかく教育には結論と呼びうるものはないわけですから、われわれも二十一世紀を担う子どもたちの明日をどうするかということを念頭において日々尽力していきたいと思います。
本日は本当にありがとうございました。
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