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1986年(昭和61年)6月1日

出会い〈1〉母

■人間関係の第一歩 それは親子関係

 小学校4年生の時である。東京の下町の公立小学校に通っていた私は、けっこう成績もよくて、いわゆるガキ大将として毎日を元気いっぱいに過ごしていた。
 当時(昭和27〜28年頃)東京の子どもたちの間で「紅梅キャラメル」が大変人気を集めていた。1箱10円で、キャラメル10個と読売巨人軍の選手のカードが1枚入っていたのだが、人気のあったのはキャラメルよりもむしろカードの方で、監督の水原、投手の別所、一塁の川上…というようにナインと監督の10枚をセットでそろえるとグローブなどの景品がもらえるようになっていた。当然のことながら、なかなかそろわない。水原とか川上などの人気のカードはめったに出てこないのだ。
 当初、私たちは余ったカードと足りないカードの交換会などをしていたのだが、そのうちもっと新しい多くのカードを集めるために、何人かが「万引き」を始めてしまった。そして私も−。
 「万引き」−私たちは頭の中では「悪いこと」だとわかっていたのだが、途中からはゲームのように楽しんでいた。
 1個買うついでに別の2個か3個をポケットにこっそりとつっこむ。そして誇らしげに仲間同士で「オレ、3個取ってきたぞ」と報告しあうのである。
 しかし、そんな不正なゲームは長続きしなかった。学校近くの「清水さん」という駄菓子屋で見つかってしまったのである。お店にいた小さな男の子に「おばちゃん、このお兄ちゃんたち、たくさん取ったよ」といいつけられ、清水さんに調べられて、すぐに学校と家に連絡されてしまった。
 クラスでも中心的存在であった私が「万引き」に加わっていたということで、後日学校ではちょっとしたさわぎになり、担任の女の先生から随分厳しくしかられた。問題は家の方だった。その日わざと時間を遅らせて家に帰ると、母が悲しそうな顔をして待っていた。「清水さんから聞いたよ。どうして……人様のものを……。今すぐ、私といっしょに清水さんの家に謝りに行こう…」私はしぶしぶ母の後にしたがった。しかし、おばさんと顔を合わせるのがいやで、店の入口で母の背中にかくれるようにして立っていた。
 母が清水さんに何と言って謝ったのか、今では覚えていない。ただ、自分より年の若い顔見知りの清水さんに向って何度も頭をさげる母の後姿が、古い映画の1シーンのように私の記憶に焼きついている。その時の私といえば、悪いことをしたとか、母に迷惑をかけたというよりも、何てつまらないことに夢中になっていたんだという気持ちが強かったように思う。しょうもないことをして、母に恥ずかしい思いをさせていることへの腹立たしいような後悔の念でいっぱいであった。
 母がこの件を父にどう話したのか、恐らく父も知っていたにちがいないのだが、父からはついに何も言われなかった。初めのうちは正直言ってほっとしたのだが、この時の父の「無言」は、後々まで私に心理的なプレッシャーを与えつづけることになる。例えば、犬をつれて父と散歩に行き、清水さんの店のそばを通る時など、私はわけもなく胸がドキドキし、父の顔を正視できなかったことが度々であった。「万引き」の事実そのものよりも、不正なことに誘惑された自分の心の弱さを父に見抜かれているように思えてならなかったのだ。
 この件で、私は自分の行為が、相手の人や自分の周囲に大きな迷惑になることを痛いほど知らされた。特に、母にだけは恥ずかしい思いはさせまいと子どもながらに心に誓ったのである。
 その母も今年82歳。7年前に父を亡くしたが、東京の実家で次兄一家と元気に暮らしている。拡大鏡なんかを使っては新聞を読み、世の中の出来事にも非常に敏感である。時には教育問題などの新聞の切り抜きをしてくれたり、チラシをとっておいてくれて、私が実家に帰ると「何か参考になるかねぇ」と言って見せてくれるのだ。近所でも「若いおばあちゃん」で通っている。母の若さの秘訣は、昔ながらの家庭料理を好み、絶対に食べすぎないこと。好奇心が旺盛なこと、私たち息子のことをいつも心配していること、そしていつも何かの役に立っていたいという気持ちが強いこと、などがあげられるだろう。昼間は次兄一家が仕事で留守なので、一人で実家を守っている。何かと心細いこともあるのだろうが、老人会のお仲間たちとたまには散歩や買い物に出かけたりしてまだまだ元気である。私は東京出張の際には、少しでも時間を見つけて顔をのぞきに行く。大阪にいる時は3日に1度ぐらいの割で電話をかける。「大事な仕事だから、体に気をつけてね」いつもはげまされるのは私の方なのである。
 ところで、私が母のありがたさを知り、その言葉や日常の姿から改めて多くを学ぶことができたのは、京都で大学生活を送るようになってからだ。戦争直後の4年間の疎開生活を含めていつも身近にいた母を、京都という離れたところから思うとき、きまって随分小さな姿が浮んだ。そして、それとは逆に、母がいつも折にふれて一人ごとのように話していたいくつもの言葉が、私の心の中で次第に大きく響くようになったのだ。大げさにいえば、その言葉のリフレインが、生きていく上での哲学として私の心の財産となっていることに気付かされたのである。
 母は自分や家族の身の上に「思うように進まないこと」があったり、私や兄が他人を羨んで不平や不満を言ったりした時、いつも次のような言葉を、まるで歌うように独りごちたのであった。
 「人の一生は重荷を負って遠き道をゆくがごとし、急ぐべからずってね。」
 「上を見ても切りがない。下を見ても切りがない。自分は自分なんだよ。」
 何度も何度も聞いたこれらの言葉と母の姿を通して私が母から教わったことは、一言でいえば「嫉妬心をもたずに生きる」ということであった。無理をせず、自然体で、分相応の生き方をする、ということで、そうすることで得られる心の平安を母は何よりも大切にしていたのだ。後になって、世の中の様々な事件や出来事に関連して身をほろぼしてしまう人々の多くが、他との比較からくる嫉妬心が高じた結果だと気づいて驚いたことがある。自分は自分という当たり前のことがなかなかわからないが故に、人は心の自由、心の平安をもてなくなってしまう。とても恐ろしいことである。
 私が、能開センターという団体を率いて、教育という仕事を全国に拡げていこうとする中で、随分無理をしているとか、大変な野心家であると思われた人もいたようだが、より高い目標に向って努力することはあっても、決して他を羨むが故の「嫉妬心」にかりたてられてのものでないことは断言できる。私は自分の自然体で仕事をしてきたし、一度たりとも無理をしたことはないのである。改めて、母には感謝をしなければならない。
 人は世に出てから、それぞれ仕事を持ち、それぞれの分野で社会的責任を果すことになる。そして、仕事というものにはほとんど「一人」でできるものはない。その意味で私は、「仕事の本当にできる人」とは「人間関係の優れた人」だと考える。当然、人間関係の第一歩は親子関係である。したがって、親を敬い、いたわり、尊重できない人、そうした気持ちをもっているとはいいながらも「かたち」に表せない人は、本当の意味での人間関係をうまく保てるはずがなく、仕事もたいしたことはできない、と私は思うのである。能開センターの社訓(会社の人間がみんなで守っていこうという誓い)のひとつに、「親を大切にしよう」とあるのはそうした理由による。むろん、そこには、十分な恩返しもできぬままに父を失い、残った母にもまだまだ孝行をつくせないでいる、そんな私の自戒の気持ちが込められていることも確かである。

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