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1986年(昭和61年)9月

出会い〈3〉友人

■“縁”という絆に結ばれて

 私が小学生の頃(昭和24年〜30年)、東京の下町にはそこここに野っぱらがあった。その野っぱらを囲むようにいくつもの掘割があってそこには無数の筏(いかだ)が浮んでいた。江戸時代からの木材の集散地として知られる“木場”と呼ばれた一帯は、昭和20年の大空襲で焼け野原となったのだが、当時はまだその面影をとどめる工場跡地などがあって、巨大な装甲自動車や機械の残骸が放置されてあった。私と仲間たちとは学校から帰るのももどかしく、この自然を最大限に利用して様々な遊びに興じた。「探偵ごっこ」や「筏飛び」や「水雷艦長」(水雷本艦とも言われた一種の鬼ごっこ)、そして雨が降れば材木置場の空地で「ケン玉」や「メンコ」や「ベーゴマ遊び」をやった。誰もが「お古」とか「お下がり」を着ていた。誰もが痩せてすすけていたが、目だけはキラキラと輝いていた。30年以上の時がたち、何人かはもう消息も知れないが、私の記憶の中の仲間たちは、今もあの頃のイガグリ頭のままで屈託なく笑っている。
 中学では、私は野球と生徒会活動に明け暮れた。小学時代の仲間に加えて、他の小学校から入ってきた新しい仲間とのつき合いも始まった。彼らとは勉強上のライバルとなり、生徒会の役員として夜おそくまで議論を交わしたり、神田にあった全東京規模の模擬テストを受けに行ったりした。互いに相手を意識してか、「××さん」とさん付けで呼び合った。一方、小学時代からの仲間の多くは、中学卒業後は家業を継いだり、会社や工場へ就職することになった。卒業が近づくにつれ、彼らの顔が急に大人びたよそよそしい表情に変わっていったのを私は今も鮮明に記憶している。当時、都立の名門といわれた両国高校へクラスから1人だけ進学することになった私は、秘かな優越感とともに、彼らを裏切ってしまったような故知れぬ寂しさも感じていた。彼らと過ごした黄金の日々は、もう2度ともどってこない、そんな予感があった。
 両国高校では、やらねばならない勉強の課題があまりに多く、「やりたい時にやりたいようにやるタイプ」の自分には不向きの学校だと初めから思っていた。何のクラブにもサークルにも所属しなかった。よく図書館に行っては、小林秀雄やニーチェやキェルケゴール(ともにドイツの哲学者)を読んだ。2年生の時のクラス日誌に、キェルケゴールの「死にいたる病」を引用した文章を書いたら、担任から「むつかしい本を読むのもいいが、まず大学へ行くことが先だろう」と注意された。そんな私に、同じような落ちこぼれの仲間が数人できた。彼らとはよく授業を抜け出して、錦糸町駅の途中にあった「くじら屋」へカラアゲ定食を食べに行った。不思議なことに、私にはもうひとつ理系の人たちとの交友関係が生まれた。勉強はダメだが本だけは読んでいる、ということで一目おいてくれたようだった。彼らは今、東海村の原子力センターの研究員、一級建築士、数学の教授などとなって活躍している。どちらの仲間とも、卒業後はほとんど会う機会がないのは残念である。
 さて、大学は2年浪人の末に東大から京大に転じ、第1外国語としてフランス語を選んで文学部4組に入るのだが、私はこれらの選択を今も神に感謝したいと思っている。京都は私にとって何もかもがピッタリの街であった。そしてこの街で、私は実に様々な個性に出会ったのだった。誰かが「渡り鳥の地」と呼んだように、京都には全国から多くの学生がやってきては青春の盛りを過ごし、4年が過ぎるとまた去っていく。ほとんどが東京や大阪に職を求めるからである。京都の自由で思索的で、いく分非現実的な空気は、賀茂川や先斗町や寺々の風情だけでは生まれてこない。主人公たる学生が各地から集まっていることと、彼らがやがて一生を託す職場がこの地ではなく別の地にあるという事情をぬきにしては考えられないのである。政治についての関心がことさら強い時代だった。ある者は学生運動に情熱を傾け、ある者は真剣な思索や検証の末に、賭けるべきものを見失って懐疑へと沈んでいった。私は数人の仲間たちと下宿や喫茶店で文学や哲学について論じ合った。お金と原稿を持ちよって“モメント”という同人誌を出したりした。十数種類のアルバイトも経験した。お金が入れば映画館のハシゴをし、河原町や木屋町の安い店を見つけては飲みに行った。大手前女子大学助教授の平井邦男、同志社大学助教授の青木康容、家具のサワダの企画室長の沢田吉孝らの諸君とは、そうした共通の空気を吸った仲だ。彼らには、能開センターやこども情報センター主催の「作文コンクール」の審査員になってもらったりしているが、現在も年に数回は大阪や京都で顔を合わせて酒をくみ交わす。互いの近況、政治や経済、社会の動きについて話し合ったりするのだが、20年前の学生時代の共生感がたちどころに甦ってくるのは不思議である。“君子の交わりは水の如く淡し”という。そんなつき合いを今後も続けていけたらと思う。朝日新聞広告局の平松課長、松山の愛光学園の五百木教頭も京大時代の同期生で、彼らとも今仕事を通してのおつき合いが続いている。考えてみると、私が大学時代に彼らと出会い、20数年後の今日もなお友人として様々な刺激や影響を受け、心くつろげる一時を持つことができるということは、本当に幸せなことだ。恐らく、単なる偶然や意志の力でもない。何か別のものが私達を結びつけていたのに違いない。私はそれを“縁”と呼びたいのである。
 ところで、知り合って2年、全部で十数回しか会っていないにも関わらず、その明晰な頭脳とあまりにも過酷な運命の故に忘れ得ぬ人となった畏友、野口健朗について記しておきたい。
 野口に初めて会ったのは、私の京大入試直後のことだった。両国高校の同期ではあったが一面識もなかった彼を、別の友人が「京大へ行っているすごい男がいる」と紹介してくれたのである。彼は長身で色白の好男子であった。すっかり板についた関西弁で、吉本隆明(詩人・思想家)やサルトル(フランスの哲学者、文学者)を語った。難解で当時の私にはよく理解できなかったフッサール(ドイツの哲学者)の現象学についてとうとうと話したのには驚いた。むつかしい話になると、角ばった眼鏡の奥の柔和な目が鋭く光るのが印象的であった。初対面の日以来、彼と私の関係は先生と生徒のそれであった。私はいつも野口の鋭い感性と博識に圧倒されていた。「対等に話ができるように勉強しなければ」会う度ごとに秘かに私は勉強プランを練り直すのだった。私が2回生に進んで間もなくの頃であった。彼が軟骨肉腫という病気になった、といううわさが流れた。その当時「愛と死を見つめて」という女子大生の手記が話題となり、私も軟骨肉腫という不吉な病気が存在することを知ってはいた。まさか、野口がそんな病気にかかるはずがない、しかし、噂は真実であった。京大病院で診察を受け、すぐに東京に帰り慶応病院で手術を受けたというのだ。首のつけ根から右肩と右腕のすべてを切断する大手術であった。
 彼はそんな大病にも関わらず、その年の秋おそくに京都に復学してきた。義手を付けた右手はむろん使えず、左手だけの不自由な生活であった。「京都の秋はやっぱりええわ」彼は努めて明るく振舞い、前にも増して文学や哲学について勉強を深めていくように思えた。「肺への転移が防げたんやからしゃあないわ」彼は義手をさすりながらそんな風にいった。しかし、不幸なことに、肉腫は肺をもおかしはじめていた。昭和40年1月、恐れていた病気が再発した。春から夏にかけて築地の国立ガンセンターや辻堂海岸の断食道場で、それこそ彼の必死の闘いが続いた。病状は一進一退であった。その最中、6月に彼のお父さんが急逝されたのだ。夏休みに帰京して、国立ガンセンターに見舞った時、彼は義手をとって半分くらいに小さく見える体をベッドに横たえ「この体で喪主をやったんや。今度だけはまいったわ」と空を見つめて言った。目に無念の涙が光って見えた。彼は好きだった京都の秋を再び見ることもなく、9月14日に永遠の眠りについた。高校時代からのつき合いという恋人を残しての23歳の死であった。
 私は野口のことを思う度に、彼が耐えねばならなかった深い深い精神の淵源を思い、慄然とする。肉腫が野口にではなく私にできていたら、人は生かされてあるとしみじみと思うのである。元気な頃の立派過ぎた彼に、一歩も二歩も距離をおいてしまったように、病に倒れた彼にも私はやはり距離をおいてしまっていた。もっと彼の為にしなければならないことがあったのに、との後悔が残った。せめて私は、生涯の畏友として彼のことを心に思い続けていくことと、生かされてある人生を精一杯に努力して生きようと思っているのである。
 さて、私はわがままな性格で、能力にもさほど恵まれていたわけでもないのに、多くの秀れた人を友人に持つことができた。恐らくそれは“縁”と呼ぶしかない絆によるところが大きいのだが、考えてみると人間関係のすべてがこの“縁”を如何に大切にするかで決まってくるのかもしれない。下村澄氏(毎日放送)によれば、徳川幕府の剣の指南役で名高い柳生家の家訓に「小才は縁に出会って縁に気づかず、中才は縁に気づいて縁を生かさず、大才は袖すりおうた縁をも生かす」ということばがあるそうである。秀れた人間は、ちょっとした出会いをも大切にし、努力してよりよい人間関係を作ってしまう、ということであろう。もう十数年にわたるおつき合いだが、毎日通信社の谷口吉博社長などは私からみると人間関係の達人である。出身地佐賀の県人会や記者時代からの人脈を実に大切にしておられる。独特の鷹揚なお人柄で、初めて合った人にも十年来の知己のように話しかけられる。また、最近おつき合いをいただくようになった財団法人「ユース開発協会」の堀添勝身理事長と森大二郎常務のお二人も、ものすごい人間関係=人脈をお持ちである。先日もある会合で、政財界や官界で活躍されている人々が多数出席されたのだが、そのほとんどがお二人の高校や大学時代の友人と聞いて驚いてしまった。日本では人脈というと“コネ”などと言ってよくない方のイメージもあるのだが、情報時代の今日、改めて人脈の価値が見直されてきているようである。社会人の人脈づくりの為の集会や勉強会が益々さかんになっているのが、何よりの証拠である。「人の一生の価値は、秀れた友人を何人持っているかで決まる」と何かの本で読んだ記憶があるが、本当にその通りだと思う。私も、おくればせながら谷口社長や堀添さんや森さんに習って、もっともっと出会いを大切にし“縁”を生かすよう努めたいと思うこのごろである。
 (昭和61年8月17日 記)

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